第23話

 両手を広げて執行官と自らを遮る背中を見て、美翅はその名を小さく呟いた。


「ゆういち、くん……」

「…………」


 悠一はただ黙って前を見据え――日常を奪おうとする敵を睨みつけた。


「いいんだな?」

「…………」


 夏樹の口調は、淡々としていた。

 悠一から返答はない。

 誰の目から見ても、戦いの行方は明らかだ。

 どれだけ卓越した身体能力を有すると言っても、所詮、悠一はただの学生だ。


 対して、夏樹はこれまでに多くの擬態種を放ってきたエリート。

 委員会内部では、エースなんて呼ばれ方もしていた。


 悠一がどれだけ構えていようが――。


 まばたきをした、その瞬間に斬り伏せられていることは想像に易い。


「僕はっ」

「どこまでいっても、お前は一般人だ。身元もきちんと割れてるからな。殺しはしない。ただ――ちぃと、痛い目見てもらうだけだ」


 ――リン。

 すでに、悠一の眼前に刀は迫っていた。


「あ――」


 悠一が作り出そうとしたロスタイムは、一秒に満たなかった。

 刃が悠一に迫り、肩口からその身体を真っ二つにしようとした、まさにその瞬間。


「、だめっ!」


 悠一は背後から聞こえた、愛しい人の声に、目を見開いた。


「……あ、れ?」


 訪れるはずだった未来は、どれだけ経ってもやってこない。

 悠一が瞼を押し上げる。


 確かに、悠一に向かって振り下ろされた日本刀。


 しかし、その刃は虚空で動きを静止していた。


 悠一と、死を具現化した武器との間を隔てるのは、黒い何か。

 おびただしいほどの、蝶の群れだった。


「ちっ」


 舌打ちをした夏樹は後ろに向かって飛び退き、距離を取ると、刀の峰を肩に置いた。

 悠一が、夏樹の視線を追うようにして振り返ると――戦場に向けて手のひらを開く美翅の姿が、そこにはあった。


「……美翅」

「…………」


 美翅は無言で歩みを進め、悠一と夏樹、両者の間に割って入る。

 そして――彼女の周囲に、螺旋渦巻くようにして、無数の蝶々が羽ばたいた。

 鮮やかな茶色い模様をあしらった、黒く大きな翅をはためかせて踊る。


 美翅はそっと、指先を夏樹の方に向け、口を動かした。


「――お願い」

「――ちっ、くしょう!」


 高速で飛来する、黒い閃光。


 夏樹はその場で飛び上がり、追撃から逃れた。

 大地を蹴り、壁を蹴り、しかし――追いすがる蝶は、夏樹との距離を瞬く間に詰めた。

 黒い蝶は集まり、一つの集合体を形作る。


 先端がやや丸い円錐――。

 まるで、大砲の弾か何かのようになって、夏樹に飛来した。


「っ、ちっ」


 空中に居た夏樹は、刀の腹で巨大な一撃を受け止める。

 されど、衝撃を受け切ることは出来ない。

 弾丸の一部となった夏樹はそのまま、コンクリの地面に向かって激突した。

 悠一が、思わず声をあげる。


「わっ……」

「…………」


 昇る土煙の中から、バラバラに散らばった蝶々が再び、美翅の元に集う。

 背後で立ち上がろうとした悠一を、美翅は手のひらを向けて制した。

 灰色の煙が消えていくと――。


「まじかよ……」


 そこに、灰音夏樹は立っていた。


「ぺっ。……ちぃとばかし、効いたぜ」


 ――無傷、とはいかない。


 自慢のコートは破れ、服の隙間から見える素肌は血が滲み、口内を切ったのか吐き出した唾には血が混じっていた。

 しかし夏樹は、いつものように、刀を肩に乗せて立ち上がった。

 夏樹の眼力の強い瞳が一層鋭くなり、口の端が釣り上がる。


「今度はこっちの――」

「させない」

「――っ、まじかよっ」


 飛びかかってきた蝶々。今度は、やや小さめの大きさで固まって夏樹に向かった。

 しかし、その数は一つでない。

 合計四つの弾丸を形成し、四方向から夏樹の命を刈り取ろうと迫る。


「がっ、くぅぅ、ははっ……」

「…………」


 多方面からやってきた攻撃、その全てを肉体で受け止め……夏樹は、笑っていた。


「――やるじゃねぇか!」

「本当に……人間かよ……」


 悠一の口からは、そんな、当然とも思える感想が飛び出す。


 やがて――。


 どれだけの攻撃が繰り出され続けただろう。

 空を仰いで倒れた夏樹。

 指先を夏樹に向けたまま、目つきを鋭くして立ち竦む美翅。


 ――勝敗は決している。


 誰もが口を揃えて言うだろうそんな展開で……夏樹はまた、白い歯を見せつけ、刀を杖のように使って立ち上がった。


「ははっ、こりゃあ参った」


 不敵な笑い声。

 圧倒的に不利な状況下にある今を、彼女はまるで"楽しんでいる"かのようだった。


「その黒い蝶は、てめぇの血液で形成したものだな。血液を凝集、硬質化、さらには自在に動かせる……しかも、こっちの血液を"吸って"大きくなるのか」

「…………」

「まるで死肉に群がる羽虫だ。危険度……どれくらいだ? 少なくとも、赤は越えてる。青か……下手すりゃ、前人未到の紫レベル」


 くつくつと、笑い続ける夏樹。

 その身体こそ、ぼろぼろで……とっくに、満身創痍に見える。


「お前さ、そんだけ強ぇのに、どうして少年を使ったんだ? 自ら狩りに出たって、負けやしないだろ」

「……わたしは、」

「ああ、悪い。今のなし。……お前は擬態種だったな。化物の釈明なんて、聞く意味もねぇ。オレたちはただ……無感情に、お前らを殺すだけだ」

「っ、お願いっ」


 その瞳に、何を感じたのか。

 夏樹に再び、蝶々が向かっていた。

 躱せるはずのない速度と距離。


 果たして――その一撃は、夏樹の立つほんの数メートル隣を通って、地面に着弾した。


「――え?」


 ――リン。


 鈴の音が、闇に響く。

 それは、死神の足音。


 その音を聞いて、生き残った擬態種はいないとすら言われている。


「じゃあな。楽しかったぜ。暫定危険度紫級擬態種――スワロウテイル」


 ――リン。


 刀を水平に振って構え、体勢を低くした夏樹が、美翅に向かって走り出した。

 遅くはない。


 しかし、驚くほど早くもない。


 愚直なまでに、単調なルートで迫る夏樹の影。

 美翅は散らばった蝶々を集め、背後から無数の弾丸にして夏樹に飛ばした。


 しかし、


「どう、してっ……」


 ただの一撃も、夏樹を捉えることが出来ない。

 夏樹まっすぐ走ってくる。

 軌道を変えようとすらしていない。

 確実に狙って動かした攻撃は、その身体に掠ることすらもない。


 まるで、――美翅がわざと外しているような軌道。


「もう終わりだ」


 最早、その距離は目と鼻の先。

 刀を横方向に振りかぶった夏樹。

 空いた左手は拳銃を構え、

 その銃口は、美翅の背後に居た悠一に向いていた。


「――え?」

「だ、だめっ」


 美翅が操っていた全ての蝶が悠一の眼前に集まって、盾のように、一枚の壁になった。


 そうして――。


 振り抜かれた刃の一撃は、抵抗する手段を失った美翅の身体を斬り裂いた。


「あ……――」


 それは、誰の声だったのだろうか。

 その正体が判明するよりも、ずっと早く。

 銃口を構え直した夏樹は、その指を強く、引き絞っていた。


 ――ガウン。


 重低音が街に轟く。


「……嘘だ」


 悠一の声が儚く、闇に沈む。

 盾になっていた蝶が散開し……目の前には、信じがたくない光景が広がっている。


「なあ、嘘だろ……」


 小さな背中だった。

 守りたいと……絶対に守るのだと決めた、優しい人。

 彼女の身体からは……灰色の煙が、もくもくと立ち昇っていた。


「がふっ」


 続いて、美翅が何か吐き出すように咳を吐いて――。

 その場に倒れ込んだ。


「美翅っ!」


 駆け寄ろうとした悠一の身体を、手のひらを開いて、美翅自身が押し留めた。


「近付かないで」

「っ、だ、だって……」


 きっぱりとした拒絶の言葉と、虚ろなブラウントパーズの瞳に見つめられ。

 動きを止めた悠一に、夏樹が言った。


「そいつは、お前のことなんてどうとも思ってない。擬態種は化物だ。決して人じゃない」

「……違う」

「谷村悠一なんてな、こいつに取ってみれば餌を持ってきてくれる餌。その程度の認識でしかない」

「違うって、言ってるだろっ!」


 夏樹に殴りかかろうとして、しかし、難なく躱されて。

 腰を強く蹴り飛ばされた悠一は、美翅と同じ様に地面を転がった。


「ううっ、……」

「いい加減目を覚ませ。お前はこいつに餌を与えた。……事実だけを見るんだ」


 夏樹は悠一から視線を外し、刃を振るって美翅の方を向いた。

 息も絶え絶えな様子の美翅に、抵抗する術などない。


 ――リン、リン。


 夏樹の足音に合わせて鈴が鳴る。

 周期的に、規則正しく、それはカウントダウンのように――。


「あ?」


 音が止んだ。

 

 夏樹の行動を阻む者がいた。

 悠一ではない。

 倒れた美翅と、夏樹の間に立っていたのは、小さな少女。


 発行する首輪を身につけた、"ヒトガタ"の少女だった。


「――カイリ?」

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