第22話

 悠一の父は蒸発したということになった。


 まともな仕事についていたとはいえ、彼には賭博癖があり、借金こそないものの貯金は殆ど存在していなかった。加えて、毎日のように我が子に対して行っていた虐待行為は周知されており、姿を晦ました事について不審がる者は多くなかった。


 悠一の生活は慌ただしかった。役人を名乗る人が多く訪れ、悠一の今後について話し合った。


 親戚の中で、谷村悠一を引き取ろうと考える人間はいない。

 昨今の増加する失踪者により、天涯孤独の身となった子どもたちは悠一の他にも多く、児童養護施設は許容人数を超過しているところが殆ど。


 親戚がいるのなら、是が非でも引き取ってもらいたいという国の意向があった為か、話は長期間に及び、


「経済的な援助は行う。家賃も生活費も全て賄う。だから、今の家に一人で暮らしてもらうことはできないか?」


 親戚の一人が、役人にそう打診した。


 まかり通るはずもない暴論だったが、当の悠一がこの案に強く賛成し……結果として、月に数回役所の人と面会をするという約束の元、小学生による一人暮らしが開始された。


 悠一が美翅を自宅に招き、共に暮らし始めたのは騒動から三ヶ月以上経過してからだった。


 二人が互いに「そうしよう」と示し合わせたことはない。

 ただ、悠一が美翅に懇願したのだ。

 最初こそ渋った様子を見せていた美翅であったが、最終的に首を縦に振り、「しょうがないなぁ」と添えて共同生活がスタートした。


***


 悠一にとって、それは夢のような日々だった。


 楽しい以外の感情はなく、次第に性格も明るくなっていった彼は学校に通っていても孤独を感じることが少なくなっていった。


 悠一はすでに、美翅が「どういう存在であるのか」知らないわけがなかった。

 知っていて、気付かない振りをずっと続けたのだ。

 彼女にだったら、例えどんなことをされても――最悪、食べられてしまっても良い。


 ――本気でそう思っていた。


***


 ある日のことだった。


 その日は悠一の食事当番で、彼はここのところ得意料理であると謳っていた寄せ鍋の調理に没頭していた。

 白菜を小分けに切ろうとして……包丁で指を軽く切る。


「いたっ」


 思いの外深く切ってしまったのか、血は中々止まってくれなかった。

 リビングで落ち着いていた美翅も気づいたらしく、慌てて台所へやってきた。


「大丈夫っ?」


 咄嗟の判断だったのか、美翅は血を流す指先を自分の口に含んだ。


「み、美翅っ」

「だめ、」


 恥ずかしくなって指を離そうとしたけれど、美翅は頑なに指先を咥えたままだった。


 それから数分――悠一は美翅の異変に気がついた。


「……美翅?」

「…………」


 美翅は黙ったまま、「吸い付いていた」

 垂れ流しされる悠一の血液を貪っていた。


「美翅!」

「っ、あ、え?」


 悠一の強い語気に、意識を覚醒させたらしい美翅は、指先を唇から離して愕然と自らの手のひらを見つめた。


「わた、わた、わたし……」

「…………」


 悠一は、ただ黙ってそんな美翅を見つめていた。

 どういう言葉を投げかければ良いのか、正解がわからなかった。


***


 擬態種が生きていく上で必要な栄養素に、人間からしか摂取ができない物質は存在しない。


 ならば、なぜ彼らは人間を喰らうのか。


 一説によれば、それは快楽を求める為であるらしい。

 擬態種は一度人間の味を覚えてしまうと、忘れられなくなる。


 そして、渇望する。


 その様相はまるで、自慰行為を覚えたばかりの青少年のようで、やみくもに、快楽中枢を刺激する為だけに行われる。


 もし、食人を覚えた擬態種がそれを行わなくなったら?

 専門用語で飢餓状態と呼ばれる症状を発病し、およそ合理的な思考回路が欠落してしまう。そして、彼らが取る行動はその全てが野生に転化する。


 人間が彼らの行動を徹底的に管理する背景には、一滴であっても人の血を舐めさせてはならないという、確固たる根拠に基づいたものがあるのだ。


 黒枝美翅にとって、悠一の父を喰らった事こそが、飢餓状態を引き起こすきっかけ。

 抑圧されていた捕食願望は、悠一の父を食することによってあっさりと崩壊。

 彼女の無意識は、今か今かとその時を待ちわびていたのだから。


***


「はぁ……はぁ、……」


 四十度を超える高熱と倦怠感。

 悠一がインターネットを駆使して集めた情報によれば、その症状はまさに飢餓状態となる前段階そのものである。


 美翅は数日、ろくに食べることもせず横たわったまま過ごしていた。

 頬を赤くし、苦しそうに息を吐き、時には「部屋から出て」と冷たく悠一をあしらう。


 すでに限界を突破した彼女は、いつ、自分がどうなってもおかしくないという自覚があるように、悠一には思えていた。


「――美翅」

「…………」

「僕を食べて」


 美翅は黙って首を左右に振った。


「出来ないよ」

「で、でもこのままじゃ――」

「悠一くんに何かをしてしまうくらいだったら、わたしは、自ら死を選ぶ」


 インターネットの匿名掲示板には、飢餓状態が起因して死ぬことはないとあった。

 それは、擬態種はどう足掻いたとしても飢餓状態から逃れることが出来ず、最終的に理性を崩壊させてしまうからと書かれていた。


「……飲み物、買って来るよ」


 悠一は立ち上がり、一人、深夜の街へ飛び出した。

 時刻はとうに日付を跨いでおり、田舎町の道路には人っ子一人と見当たらない。

 十分と歩けばコンビニまでたどり着く距離。

 曲がり角で、不意に悠一は足を止めていた。


 ――誰かが居る。


 そろりと、建物の影から気配のする方を覗き込む。

 街灯のない道で、道路に座り込む人影。


 聞き覚えのある、不快な音。

 ぺちゃぺちゃ、ぐしゃぐしゃ、ばりばり……。


 誰かが誰かを食べている。

 間違えようがない。

 それは――。


「……擬態種」


 影は悠一の小さな声を鋭敏に聞き取り、振り向いた。


「あ」


 悠一は尻もちを付いてしまっていた。

 ――逃げ場はない。このままでは、自分も食べられてしまう。

 そんな事を考えた矢先。


「っ」


 目線が合う。女性だった。口元に血液が多くこびりついている。

 瞳は、驚愕の色に染まっている。


 ――咄嗟に、悠一の口が動いた。


「わ、わけてください!」

「……え?」


 それ以上は言わなかった。

 それが最も丸く……確かな方法だと思ったから。


「あなたも、そうなの?」


 果たして、その女性擬態種は狙ったとおりの勘違いをして――笑った。


「はい。……私も、偶然見つけたのよ。もう、色々とギリギリだったから……助かったわ」


 手渡された肉片。嘔吐感がこみ上げる。


「食べないの?」

「あ、いや……」


 不審に思われてしまう。

 ――一口でも口にして、示さないと。


「……ううん。ごめん。私が見られたから、仕返してやろうって思っただけ。いや、だよね。人を食べているところを見られるだなんて」

「…………」


 女性は涙を流していた。


「私は夏菜子。貴方の名前は?」

「悠一……」

「じゃあゆうちゃんだ。同じ街に住む擬態種同士。これからよろしくね」


***


 それから、悠一は夏菜子とよく会うようになった。

 主な目的は、食料を分け合うこと。


 夏菜子の主だった捕食手段は、他の擬態種の喰い残りを漁ることだった。

 擬態種の生態や、捕食の考え方を二人で徹底的に検討し、夜を明かしたこともあった。


「――元々親のいなかった私は、児童養護施設のシスターに拾われた。彼女は、私が擬態種なんだって言っても、「だから何だ」と、いつも私を怒ってくれた。……でも、駄目だった。私は、私の本能に負けてしまった。一回だけなら大丈夫だって……怪我をした友だちの血を舐めて……それで、それからはずっとこうして生きてる」

「……そっか」

「ゆうちゃんは、どうして?」

「……美翅っていう女の子と、公園で出会ったんだ。僕は元々、一人、この街に……特定の住居を持たずに住んでいた――」


 夏菜子についた、一つの嘘。

 悠一は、自分と美翅の関係を逆転させたストーリーをでっち上げた。


「……そうなんだ。……その、美翅って子は、優しいんだね。だって、ゆうちゃんが擬態種だって知った上で、二人きりで暮らしているんでしょ?」

「……どうなんだろ。よく、わかんない……」


 時には夏菜子が手に入れた肉をもらい、今度はこちらから提供して。

 そんな生活が続いていくと、ある時、夏菜子の家には二人の子どもが暮らしていた。


 翔と龍の二人とは、偶然出会ったらしい。


 飢餓状態に陥り、まさに人を襲おうとしていたところだった。

 夏菜子は保存していた肉を提供し、二人を養うと決めたらしい。


「今だって、ギリギリで暮らしてるのに、大丈夫なのか?」


 悠一が聞くと、夏菜子は「昔助けてもらったから」と、ただそれだけを繰り返した。

 本当のことを伝えようと、何度も思ったことがある。

 三人を自宅に招き、美翅を紹介して……事実を、白日の下に晒そうと考えたこともある。


 だけど、悠一にはついぞ、夏菜子たちに自分が人間であると伝えることができなかった。


 美翅とのことだけじゃない。

 悠一は、三人との関係が壊れることも、恐れていた。


   ***


 ――今思えば、僕たちの関係は、出会った頃から何一つ変わっていない。


 菓子パンをあげるかの如く、悠一は死体を美翅に献上した。

 美翅は、黙ってその行為を受諾した。

 美翅の為だからと、罪のない人間を殺すことは、悠一には出来ない。


 例え眼の前に死刑囚が手足を縛られた状態で転がっていたとしても、手にかけることなど、谷村悠一という少年には不可能だ。

 ただし、喰い零した残骸ならば、集めることが出来る。

 その動きはまさにハイエナの印象に近い。


 サバンナで死肉を貪る彼らのように、悠一は擬態種が食い散らかした肉を集め続けた。

 自らを擬態種であると嘯いて得た仲間。


 道で出会い、ひょんなことから家に住まわせることになったヒトガタの少女。

 いつの日か、彼らもまた、悠一の中では特別な友だちとなり、家族になった。

 守るべき人が、増えていく。


 いつ、カイリが"そうなるのか"も分からない。

 けれど……着実に、得られる肉の量は減っている。


 ――ならばもし、その時が来たとしたら。


 悠一は、そんな風に考えることがある。

 もしも、数ヶ月の間、ただの一切も人肉を手に入れられなかったとしたら。

 所詮は「たられば」に過ぎない。


 しかし――。


 ひ弱なただの人間であったはずの悠一が、ひたすらに竹刀を振り続けた理由。

 朧気に見据えていた"先"を知る者は、彼の他には誰もいなかった。

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