第21話

 その日は突然訪れた。


 深夜ニ時をとうに回った時間。

 アパートのベランダから、悠一は階下を見下ろしていた。

 悠一と彼の父が住む部屋は、最上階である五階。ここから世界を覗き込めば、大抵のものは虫や埃のように小さく見える。


 だから、仰向けになったまま空を仰ぎ、瞬きなく一心不乱に悠一を見つめる父の姿もまた、そこらを飛ぶ蝿と大差ない。


 ――生きているわけがない。


「……痛い」


 悠一は先程、顔に出来たばかりの生傷に軽く触れて、部屋に戻った。

 それから玄関でスリッパを履き、階下へ降る。

 大変大きな音が鳴り響いた。真夜中だったから、誰も気づいていないのだろうか。


 それとも、その前段階があったから……「ああ、いつものやつか」と思って、不干渉を決め込んで出てこないのだろうか。

 悠一にとってみればどちらでも良かった。いや、どちらの方が好ましい事態であるか、天秤にかけて計る程の余裕がなかった。


 駐車場に降り立ち、ベランダから見つめていた時と同じ体制で、ひたすらに天を仰ぐ父。


 悠一は、恐る恐るといった様子で、身体に触れた。その瞬間に目を見開き、仕返しをされる未来が恐ろしかったけれど……ついぞ、そんな世界線にはたどり着く事なく、事実を理解した。


 悠一の父は死んでいた。


 人間の死について、何を持って定義するのか、どういった状態が「死」であるのかを一ミリとして把握するための材料を持っていなかった悠一でも、「ああ、死んじゃった」と分かる程……その遺体は惨憺たる見栄えをしていた。


「…………」


 ぺたりと地面に臀部をつけて座りこんだ。

 夏場とはいえ、夜風にさらされたコンクリの大地は冷たく、殊更に悠一の意識を現実へと引き寄せる。


「…………」


 悠一は、ひたすらに無言だった。

 無言で、父の死について考えていた。


 ――僕が悪い子だったから、いつものように怒鳴られて、殴られて、ベランダから半身が外界へと浮いたまま首を締められて……。


 必死の抵抗をした悠一に、この現状を予知する余裕などあるはずもなく。

 事態は二転三転とし、落ちたのは悠一の父だった。


 そして、彼は死んだ。ただ、それだけのことだった。


「……う、」


 悠一の瞳から、涙が溢れた。


「……うぅぅぅ、ああぁぁ、」


 口からは嗚咽。


 これまで頑なに涙腺の蛇口を絞って、絞って生きてきたはずの悠一の瞳からは、想像もできない程の涙が溢れて、溢れて、地面に赤黒く広がった血に溶け合った。


 悠一は父を愛してなどいなかった。

 別段、嫌いだとも想っていなかった。


「そういうものなのだ」と、それ以外の言葉で形容することは不可能な関係性。


 だから、父がこうして目の前から姿を消し、悲しいからそうしているのか……安堵していたからそうなっているのか……幼い少年に、理解できるはずもなかった。


 だから、泣いた。


「――大丈夫?」


 声。凛と澄んで透明な、鈴のような音。


 気づけば、悠一の隣に美翅がいた。

 両腕で折り曲げた膝を抱え込むようにして、首だけ悠一の方を向いて彼を見つめていた。


 彼女は何時からそこにいたのだろうか。

 何一つ現状への理解が追いついていない悠一でありながら、すぐ傍に美翅がいたことが嬉しいと、その感情だけは如実に理解できた。


「どうしよう」


 悠一の呟きは冷たい風にかき消される事なく美翅の耳に届く。

 美翅もまた、口を開いた。


「何が?」

「……わからない」

「……そっか」

「……ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「わからない。でも、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……ごめんなさい」

「…………」


 俯く悠一の頭に、そっと美翅の手が触れた。

 びくりと身体を震わせ、美翅を見上げる悠一。

 美翅はいつものように「えへへ」と言って、白い歯を見せて笑った。


 そこで、厚い雲が覆い隠していた月が顕になる。

 おおよそ三十八万光年の遥か彼方より、太陽光を反射させて届く月影が美翅の顔を、全身を際立たせる。


 艶やかな黒髪がきらきらと煌めき――。

 ブラウントパーズの瞳が輝く。

 そして、また、にこりと笑った。


「わたしに任せて」


 立ち上がり、徐に美翅は眼前に横たわったまま微動すらしない遺体に近寄った。


「何を、するの?」


 美翅はおよそ彼女の身の丈程はあるんじゃないかと思える程太い男の腕を手に取って――指先から口に入れた。


「……あ」


 むしゃむしゃと。

 ばりばりと。

 およそ、食事をする風景であるとは到底思えない。

 貪る事だけに集中するかの如く……あるいは、骨すらも残してたまるものかという気概が伝わるような様相で、美翅は男の身体を文字通り――『喰らう』


 血の一滴すらも残さないという貪欲さが垣間見えた。


「あ、み、美翅……」


 悠一の声に動きを止めた美翅は、振り返り、またにこりと笑った。

 頬にべっとりと付着した血液。

 白い歯は赤く染まり、彼女が息を吐くと、つんとした鉄の匂いが悠一の鼻腔を刺激した。


「もうちょっとだから、待ってて」


 それから小一時間もしない内に――。


 あったはずの父の身体は、何処かへと消失してしまっていた。

 汚れた口元を手の甲で拭いながら、美翅は「さて、と」と、これまでの彼女からは感じる事もなかったような、達観した口調で言った。


「後は、地面を洗い流そうか」


 悠一はただ、その言葉に小さく頷くだけだった。

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