第14話
一人であることを自覚したのか、悠一は一度、大きく身震いをして……頭を強く振った。
それは当然の反応かもしれない。
なにせ、この場所には来るかもしれないのだ。
少なくとも、三人を喰らった擬態種が。
「……遅い」
あれから何分が経ったろうか。
時間にして十分は経過している。夏樹はまだ、戻る気配を見せない。
「何やって――」
――ドスン。
「……え?」
大きな物音が、ビルの中に響いた。
同じ階層ではない。
悠一は足元を見つめ、唾を飲んだ。
「…………」
それから、足音を殺し、壁際に移動して手をついた。
誰かが下の階に居るのは、間違いなかった。
トイレに去った夏樹はまだ、戻っていない。
――もし、この場所に自分が居ることが悟られたら。
「っ、」
悠一は咄嗟に口元を抑えて、壁に頭から身体を押さえつけた。
ゆっくりとした動作で膝を折り、こみ上げてきた何かを飲み干す。
そして静かに立ち上がると、階段に向かって歩み始めた。
「…………」
僅かな物音ですらにも細心の注意をはらい、悠一は階下へ降る。
一階層下に降り、柱の影から、半身だけ覗かせる。
「……ふう」
廊下に人影はない。
しかし――確実に、その奥には誰かが居る。しきりに聞こえてくるのは、水音だ。
包丁で魚を三枚におろす時に聞こえるような、骨を砕く音。
ぴちゃぴちゃという音に混じり、静かなビルの中で鮮明に響く。
廊下を進んだ先にあった、開けた空間。大きな窓から照らす月明かりが、人影を映した。
――くちゃ、くちゃ。
無言で、大柄の人間が小脇に抱えた女性の腹部に喰らいついている。
漂ってくるのは、強い鉄の香り。
口を開いて、一心不乱に肉を喰らう。
くちゃくちゃと、咀嚼する音まで聞こえてくる。
「あ――」
聞いたことのある音に、嗅いだことのある匂いに――悠一は後退して、柱にぶつかった。
「誰だっ!」
「っ、」
悠一は咄嗟に、壁に身を隠した。
やかましく鳴る心臓を押さえつけるように、胸に手を当てた。
背中を預けていた壁から背を離し、猫背になって、荒く呼吸を繰り返す。
「……いるな?」
足音が近づいてくる。
悠一が歯を食いしばり、立ち上がろうとして――。
「見たな?」
眼前に女性の顔があった。
口元は血で濡れ、吐き出された呼気から、この世でもっとも嫌いな香りが漂う。
「うわあああぁぁぁ!」
悠一は咄嗟に竹刀袋を握りしめ、振り回した。
女性は軽く後ろに跳び、前傾姿勢を取って、うつろな瞳で悠一を見据える。
軽く舌なめずり。
乾燥した血液を舌で拭い、にやりと笑う。
「男の肉は嫌いなんだが――」
刹那、接近する気配。すでに、擬態種は悠一のすぐ傍にまで迫っていた。
「――っ」
悠一は身を低くして女性の脇を通り抜け、前転するように地面を転がって逃げた。
――この時点で、悠一にとって逃げ道が塞がれる。
八階を超えるビルの一室で、外界に通ずる為の道は階段のみ。
その階段に最も近い位置に居ながら、目先の逃亡に負けて敵と位置を入れ替えてしまう。
窓から飛び降りた時点で死ぬ。
かと言って、もう一度位置を逆転させる事など不可能に近い。
なぜならば、この擬態種は――。
恐らく、"持っている"
「おらあああぁぁぁぁ!」
女性は右腕を振り上げて、伸ばした指先を突き立てんばかりの勢いで悠一に手刀を繰り出した。その一連の動作を見定めて、不意に、悠一の頭には事件の被害者情報が浮かぶ。
『喉を一突きにされて絶命。その後、腹の肉が削がれている』
女性は見る限り、鋭利な刃物など持っていない。
なのに、よく観察すれば、現場に転がった死体もまた、喉から血液が垂れ流しにされている。
つまり、今繰り出される手刀の威力こそが、恐らく――。
「あっぶな、いっ」
身を低くして横に跳ぶ。すると、女性の繰り出した手刀は壁にあたり、その手が大きくめり込んだ。
「良い目をしてるじゃん?」
「はぁっ、はぁっ、」
軽い動作で壁から手刀を引き抜いた女性。
その手は月光を反射して、きらりと輝いた。
「きん、ぞくっ?」
「正解。私は、体表面に鉄で出来た鱗を張ることができるのよ」
――具象化。
俗に、"持っている"と言われる、擬態種の特徴だった。
擬態種にとっての本体と呼ばれる意識。
彼らの中には、そんな『意識のごく一部』を体外に表し、己の力として活用することが出来る個体が存在した。
その力を指す言葉こそが、具象化である。
地球上には元々、常識では考えもつかないような肉体を持つ生物も少なくない。
中央インド洋海嶺の「かいれいフィールド」と呼ばれるエリア。そこは熱水噴射孔のある場所で、そんな過酷な土地では自らの身体を金属化させて生き延びる生物がいる。
「執行官ではないみたいね。肝試しでもしにきたの? ふふ、運がなかったわね」
女性は右腕を鉄の鱗で多い、手のひらを開いて、悠一に向かって振り下ろした。その指先はまるで刃物を取り付けたかのように鋭利な形をしていた。
「くうぅっ!」
地面を転がり、視線は女性から逸らさず、悠一が意識するのは「間合い」だ。
幸い、女性は具象化こそ有していたが、身体的な能力は悠一より少し高い程度。
捉えられないほど、超高速で動くわけではない。
「すぅ……はぁぁぁ……」
立ち上がり、悠一は竹刀袋から竹刀を抜き去って、袋を捨てて構えた。
ズボンの後ろポケットには、夏樹から渡された拳銃。
――対抗手段は、間違いなくある。
「――ま、待ってくれ!」
悠一は大声を上げて、そんな風に言った。
ぴたりと、擬態種の動きが止まる。
「ぼ、……僕も"そう"なんだ!」
「……へぇ」
悠一はむずからの胸板に手を押し当てて、強くそう主張した。
その視線は、擬態種の背後で物言わぬ躯になった"人間だったもの"に向けられる。
「で、できればその……一口分だけでもいい。わ、分けて欲しくて……それで、探していたんです!」
「…………」
擬態種が持ち上げていた手を下げて、ぶらんと下ろす。
擬態種というのは、極めて仲間意識が強い。
人間と比較すれば圧倒的な力を持つ存在であるが、しかし数が圧倒的に少なく、そして抗体の発明は彼らに"危険な害虫"という認識を作った。
だからこそ、仲間同士で手を取り合う。
餌を回すグループは少なくないし、悠一にとって夏菜子がそういった間柄で言うと一番の仲間と言える。
相手は"持っている"
しかしそれは、強いことの証明になる。
「も、もし行き場を無くしてるなら……住む場所を、その、用意できる! 他にもいるんだ! この街には、まだ――」
「へへ……」
薄気味悪く、そいつは笑った。
けらけらと、枯れたような声で。
悠一はひるんで声が出せない。
擬態種の声は、ビル内に何度も響いた。
「――ラッキー」
「え――」
刹那、再び距離を詰めてきた擬態種。
明らかに、悠一の命を刈り取りにきていた。
悠一は咄嗟に構えなれた中段で竹刀を握り、両足を開いて構えた。
「どうして――」
「おらぁぁぁ!」
「っ」
迫ってくる敵を視界内に収め、悠一は剣道の基本に立ち返った。
突き出された擬態種の右腕。
左斜め後ろに後退しながら、小手の勢いで手背を横から叩いて、その軌道ごとずらす。
「えっ?」
狙い通り、間合いを詰めさせた悠一は、胴を決める勢いで、竹刀を腹部に向けて振った。
「うぐぅ!」
肉体の傷を即座に回復させる擬態種といえ、痛覚神経がないわけではない。
彼らにとって肉体はただの道具に過ぎないが、その構造や役割は人間に等しい。
少なくとも、成熟しかかった男性の身体から放たれる全力の一撃を腹部に受け、何ともないという事はありえない。
「かっ、はッ」
束の間だけ動きを止めたその瞬間を好機と捉え、悠一は竹刀を放り投げ、後ろポケットから『それ』を取り出した。
安全装置を外し、決して外さないように身体の中央を狙って銃口を向ける。
「うおおおおっっっ!」
狙いをつける暇も、注意するための余裕もあるはずはなく。
悠一は思い切り指を引き絞って、弾丸を発射させた。
重い衝撃が悠一の身体を遅い、構えた腕が反動で天井を向きながらも――放たれた弾は、間違いなく擬態種に向かって飛んだ。
きぃぃぃんんんんん――と。
軽快な金属音が屋内に鳴り響いた。
「な……」
「ははッ、危なかったわね」
穴の開いたティーシャツの奥。
見れば――擬態種の全身は、黒い鱗で覆われていた。
悠一が呆けたその一瞬を見逃さず、擬態は距離を詰めていた。
「あっ」
「お返しよ」
服の首元を掴まれ、思いきり壁に向かって放り投げられる。
「うわあああぁぁぁっっっ!」
背中から突き抜けるような衝撃が悠一を襲い、こみ上げてきたものを軽く吐き出した。
「ぐうううぅぅぅ……」
「やはり、抗体を持っていたのね。……擬態種ってのは、嘘? なーんかそれっぽいから、本当だと思ったのに……せっかく、"極上の餌"だと思ったのに。がっかり」
「な、にを……」
近寄ってくる足音。
――ダメだ。動けない。痛みに負けている。
そもそも悠一は、目的を達する為に夏樹の誘いにのった。
その目的は、先程、眼の前の擬態種から投げ捨てられ、地面を転がっている。
勝算などなかった。居場所が特定され、ばれてしまったのがそもそも、運の尽きだった。
――待てば良かったのか。だけど、それじゃあ……。
考えることは尽きない。
網膜の裏に焼き付いたのは、家で待つ二人の顔。
「じゃあね」
室内に吹く風。
続いたのは、金属音だった。
横たわる悠一と擬態種を隔てるように。
刀を抜き去り、擬態種の一撃を受け止める存在。
灰音夏樹は、小さく振り返って、笑った。
「待たせたな、少年」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます