第30話
――生きろ、なんて言葉だけを残した父を恨むことはしない。
むしろ、夏樹は感謝すらしていた。
なんとも単純明快で、分かりやすい指針だ。
擬態種でありながら、人間社会に溶け込んだ夏樹。
真っ先に生きる為の手段として思いついた先は、"ヒトガタ"だった。
元々人工擬態種として生まれた夏樹はヒトガタを経験している。
待遇に違いこそあれど、擬態種の安全はある程度保証される。
しかし、絶対ではない。
それに――夏樹はすでに、ヒトガタになるための条件を満たすことができない。
最も大事な要項……人を喰らったことがない、という。
一人遺された夏樹は、施設に入ることを勧められながらも断り、自宅に居座った。
目下の課題として、どうやって人肉を手に入れるかを考えた。
飢餓状態に至るまでの時間は、ある程度計算出来ていた。
時間敵猶予は一年とない。身体が思う通りに動くうちに、手段を見つける。
八方塞がりの状況。
渡されたサイコロで、狙った目を連続で出し続けなければ抜け出せない袋小路。
退路もなく、進むことしか許されない道で、夏樹は生きることだけを考え、努力した。
身体的能力も、擬態種としての能力も、知恵も知識も、後からどれだけでも手に入る。
だから今は――この一年をやり過ごす方法を模索する事に精魂傾けなければならない。
「どうする……どうする……」
父が悩む時によくやっていた、爪を噛む仕草をしながら、不意に思いついた手段。即座に試したのは、自らの指を食いちぎるという暴挙。
「っ――」
痛みがないわけではない。それでも、あの耐え難い実験の日々に比べれば、ずっとましだ。
親指を一本喰らい、しかし、感覚的に分かる。
――これではだめだ。
父の残した研究資料を漁ると、擬態種は自らの肉体を食しても、快楽と感じないと書かれていた。そこで夏樹は、まずは父の遺産を漁ることが大事であると気付く。
時間は有限だ。
書斎に転がるペーパーや、本棚に並べられた気が遠くなる程の本を果たして読み果せるかは定かではなかったが……考えこんで時間を浪費するよりずっと良いと考えた。
「違う……違う……あれ?」
どれだけの時間が経過した頃だろうか。
不意に、夏樹の頭に浮かんだ考え。
――自らの肉体はだめだったとして……他の"擬態種"の肉体は、どうなのだろうか?
自らの手を見つめる夏樹。
果たして、夏樹はまだ幼い子どもだ。
大人の擬態種と相対して、満足に戦うことは出来ないかもしれない。
「――いや違う」
擬態種は、人間ではない。
大人とか子どもとか、そんな概念に縛られない。
灰根家には委員会に隠匿したまま所持した抗体のサンプルが幾つかある。
そして夏樹が知らずに把握する自身の具象化は、極めて強力だ。
後は、どうやって――。
夏樹は台所にあった包丁を手に持った。
外を見れば、すっかりと帳が落ちて、誰もが眠る時間。
擬態種がどれだけこの街に蔓延っているかは知らない。だけど、深夜に子どもが一人で歩いていれば、格好の餌食になる。
後は、目立つ為の何かが――。
そこで夏樹は、部屋にあった鈴を手に取り、包丁に固く結んだ。
「死ねばもろとも……なんてね。私は、……ううん。オレは、死なない」
自らを強い存在であると鼓舞して、夜の街に繰り出した。
***
「はぁ……はぁ……」
思いの外早くに襲いかかってきた擬態種。
体格が小さい、自分と同じくらいの年齢の少年だった。
しかも、具象化を使ってこなかった。
これまでの人生、運から見放されてきたのは、きっとこの日の為。
初撃――背後から振り下ろされたナイフは身体で受けた。
来ると分かっていたから驚きはない。
痛みに泣くのは後で良い。
恐怖に怯えるのも寝る時で良い。
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁ!」
渾身の力を持ってして、夏樹は少年の腕を「かみちぎった」
咀嚼し、飲み込み、血と肉の味に歓喜する。
――そしてその瞬間に、夏樹は理解した。
自分は"持っていた"
いや――その少年の血肉を噛みちぎったその時から、"持っている"のだ。
夏樹の具象化は、無意識の優位性を強くするという、極めて概念的な力だ。
自分と背丈の同じくらいの人間の少女が襲われて、恐怖におののかないはずがないという無意識を強く表に出し、反撃に乗じた際の驚きを大きくさせ、動きを鈍らせる。
「い、痛い痛い痛いっっっ」
「――何が、痛いだ」
擬態種の肉体など、後でどれだけだって治癒できる。
痛みに喘ぐ暇があるのなら、その分窮地を打開するための思考に使うべきだ。
「オレは違う」
「ひっ――」
カウンターに成功したことに満足しない。
思考を研ぎ澄ませ、次の行動に移る。
夏樹は懐から取り出した抗体が詰まった瓶を少年の身体の上に落し、思い切り包丁で叩き割った。傷口から粘膜組織に触れた抗体が、灰色の煙を立ち昇らせる。
この時、わずかにでも夏樹が負った傷に抗体が触れたとしたら、彼女に未来はなかった。それすらも視野に入れ、どう足掻いても回避する為に傷を癒やしていた夏樹はやはり……少年よりも強かった。
「あ、ああああつつつつつついいいいい」
具現化に至ってしまえば、勝機が薄くなる。
夏樹は手持ちの抗体をもう一瓶手早く開けて、傷口に再度ふりかける。
少年は夏樹を払い除け、苦しさでのたうち回り……やがて動かなくなった。
「や、やった……」
抗体は擬態種の意識を完全に剥離させた後、肉体から消える。
そして、死後の擬態種の肉体は、他の人間と変わりないものとなる。
父の残した研究資料だ。それでも、抗体を存分にふりかけた少年の身体に触れるのには些かの抵抗があったし、食すなど恐ろしい。
そう考えた夏樹であったが、一秒未満でその恐れを捨てた。そうしなければ、生き残れないと分かっていた。
――久しぶりに喰らった肉の味に、頬が蕩けるような感覚があった。
***
少年の身体を解体し、冷凍保存までしてある程度先までの食料を手にして、夏樹は「次」について思考を移す。
いつもいつも、こんな方法で上手く行くわけがない。
「どうする……」
標的は人間だろうと、擬態種だろうと、飢餓状態を回避できる手段になるのならばどちらでも良い。より安全性が担保でき、簡単な相手を狙うべきだ。
――これ以上、運に頼る道は選べない。
運とはつまり、神に祈る行為に等しい。
夏樹は神を信じない。
彼らは人間が想像した、人間の為の拠り所だ。
擬態種である夏樹が信仰して、答えてくれるわけもない。
そこで夏樹がミメシス委員会に所属する道を選ぶ考えに至ったこと。
それは、彼女の絶え間ない思考が導き出した、最も安全な場所の発見だった。
***
「ええ。父の敵を討ちたくて。その為に、この道を選びました」
担当した面接官は、さぞ感動し、涙を流したと言う。
――生き死にのかかった瀬戸際で、演技をする事など容易い。
そんな夏樹の心情など露知らず、便宜を取り計らってくれた。
夏樹はこれまで絶え間ない努力を重ね、同年代の誰と比べても引けを取らない身体能力と、擬態種に対する知識、加えて高い知性を兼ね揃えていた。
そんな夏樹が現場を経験し、他のどの執行官と比べても高い成績を出していくのは必然。
人は生涯のあらゆる帰路に立った時、それはコイントスやサイコロを持たされる。
表か裏。あるいは出目によって未来は分岐し、よりよい先を見るには絶えず「狙った形」の結果を引き寄せる必要があった。
夏樹はこれまで投げてきたコイントスですべて「狙った面」を出し。
そして振られたサイコロ全てにおいて、「狙った目」を出し続けた。
いや違う。
――夏樹の手に渡ったその瞬間、それらの遊具はまるでイカサマの為に生まれたものであるかのように、同じ目・同じ面を持つものに変化していたのだ。
***
父から引き継いだ「灰根」という名字を捨て、「夏樹」という存在を燃やし。
彼女に父から残されたのは、最後の言葉。
『生きろ』というあやふやなもの。
「はっ」
――生きるさ。生き残ってやる。
人間らしく、生を全うする。
それこそが、夏樹が思い描く理想の未来。
彼女に取って、自らを擬態種であると潔く認めた存在など虫けら同然。
ヒトガタも、防除対象も、何も変わりはしない。
彼女の辿り着いた先は、擬態種にとって究極とも呼べる餌場。
食べ残しを拝借することも容易。
粛清した後に少しばかりその身体を喰らうことも難しくない。
ときには、自らの罪を相対した擬態種にかぶせ、口を封じた。
***
そして、夏樹が執行官となって数年。
夏樹は反政府組織と密な関係にあった。夏樹は予感していた。
現状、人間側が優位に立っていたとして、いつの日か立場は逆転する。
擬態種が人間を虐げる――人間を、ただの家畜とする。そんな未来が、必ず来るのだと。
――そして、夏樹はあるテロ行為に加担した。
自身の後継として開発された、製造番号二番の誘拐。
人間側が手に入れた、新たな力だ。放置しておいて、良いことはまるでない。
誘拐は成功。しかし、不手際により逃げられた。
人工擬態種二番――カイリが逃げ込んだ先は、谷村悠一という青年の懐。
青年を調べ、その生き様を知り、
「お前、家に来な」
夏樹は、そんな言葉を投げかけていた。
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