第11話

「……おはよう」

「…………」


 目を覚ましたカイリがリビングに出てくると、台所で調理をしている最中の悠一がいた。

 コンロの上のフライパンに溶き卵を流し込み、そのままの体勢で固まっている。

 カイリの声に気がつくことなく、その視線はどこか虚空を見つめていた。


「ゆういち」

「……あ。うん。おはよう、カイリ」


 カイリが近寄り、服の裾を引っ張ったことによって、ようやく気がついたらしい。

 悠一は首をぶんぶんと振り回した。


「先に顔、洗ってきな」

「うん」


 とてとてと……そんな擬音が似合いそうな歩き方で、カイリは洗面所に向かっていった。

 背伸びをしながら蛇口を捻り、ばしゃばしゃと顔を強く、擦るように洗う。


「あ……」


 そこでカイリは、タオルを持って来るのを忘れたらしい。

 ぼたぼたと水滴を地面に垂らしながら呆けていると――。


「忘れもんだ」


 その頭に、ふわりとタオルが投げられた。

 顔にかかった桃色のタオルからは、大好きな家の匂いがした。


「朝飯、できてるからな」

「うん」


***


「いただきます」

「……いただきます」


 テーブルに着席した二人は、示し合わせたように手を合わせた。

 それから箸を手にとって、半熟卵の目玉焼きに触れる。

 カイリはまだ、箸の扱いに慣れていない様子で、苦戦していた。


「別に、フォークでもスプーンでも、なんでも使っていいぞ」


 悠一が言うと、カイリは勢いよく首を左右に振った。


「ゆういちとみうと、おなじがいい」

「……そか」


 炊きたての白米と、塩コショウで味付けされた目玉焼き。簡単なインスタント味噌汁と、幾つかの種類があるふりかけ。それから、作りおきの漬物。


 それが悠一の作る朝食の全貌だ。


「美味いか?」

「うん」

「よかったよ」

「……ゆういち」

「なんだ?」

「大丈夫?」


 不意に箸の動きを止めたカイリは、対面に座る悠一を見上げた。


「……何が?」

「なんか、その……ぐあい、わるい?」

「……平気だよ。ありがとな」


 悠一は箸を置いて、身体を伸ばし、カイリの頭を軽く撫でた。

 カイリは心地よさそうに目を細める。


「少し風邪ひいちゃってさ。ぼーっとするんだ」

「……みうも?」


 カイリは、美翅の眠る寝室の方を向いて言った。

 カイリがこの家に来て、一週間が経過する。


 美翅が朝になって顔を見せなかったのも、朝食を悠一が作ったのも、今日が初めてだった。


「ああ。なんか、僕の風邪が移っちゃったみたいでさ。まだ寝てる」

「そう……なんだ」


 心配そうに部屋の方をじっと見つめるカイリ。

 悠一は、そんなカイリに「ありがとな」と、礼を言った。


「起きてきたら、美翅に言ってくれ。おかゆ用意してるから、って」

「……うん」


 カイリは頷いて、再び、食事を再開した。


「……ゆういち」

「ん?」

「おやさい、ちゃんとたべないと、だめ」

「うぐっ、口調ばかりか言うことまで美翅に似て来やがって……わーったよ」


 悠一はしぶしぶといった様子で、テーブルの中央に鎮座された漬物に箸を伸ばす。

 カイリは嬉しそうに、自らもきゅうりを口に入れた。

 野菜全般が苦手な悠一は、よく美翅に注意される。


「お野菜も食べないとだめだよ」


 と。それは、谷村家の食事風景においては、ある意味定番の流れだった。

 カイリは満足そうに鼻を鳴らし、眉尻を下げる悠一もどこか嬉しそうで。

 悠一は手近にあったリモコンに触れて、テレビの電源を入れた。

 聞き慣れた軽快な音楽のコマーシャルが、お茶の間に流れる。


「……ごちそさまでした」

「おそまつさまです」


 先に食事を終えたカイリが手を合わせ、悠一は軽く頭を下げた。

 そこで、テレビ画面がニュース番組に切り替わった。


『続いてのニュースです。**県で起きた、連続刺殺事件。昨日もまた、被害者が出ました』

「…………」


 遡ること三日。


 悠一の暮らす県で、連夜続く通り魔事件の報道。


 深夜零時を過ぎた真夜中、若い女性を狙った通り魔事件が立て続けに怒っていた。

 被害者は全員二十代前半。遺体は全て、首元を鋭利な刃物で一突きにされて絶命。腹部が大きく抉られていた。


 まるで、噛みちぎられたとしか思えない形で。


『本日は、擬態種の生態に詳しい大島教授をお迎えしております。教授、やはりこれは、擬態種による犯行と見て間違いないのでしょうか?』

『ええ。擬態種には、それぞれ人間の身体において、好みの部位が存在します。共通する犯行時間や殺害方法からは理性的なものを感じますし、捕食された被害者は全員若い女性。何より腹部が噛み千切られている。十中八九、擬態種の仕業でしょう』


 事件は、県内で広範囲に起きていた。一つの小さな区画に限った犯行でない為、悠一たちが暮らすこの街や、隣の県であっても、起きない保証はまるでない。


「……ゆういち」

「ん?」


 テレビの報道に目を奪われていたカイリが、真剣な顔をして、悠一の方を向く。


「どうした?」

「……おしえて」

「……何を?」

「たたかいの、やりかた」


 カイリはまた、美翅が眠る部屋の方を見た。


「……いざとなったら、隠れろ。対抗しようなんて考えるな」


 一度大きく、カイリは首を横に振った。


「みうは、ちがうから」

「違う?」

「みうは、いたいの、よくならない」


 カイリは立ち上がり、寝室に戻った。

 それから、鞘に収まった小ぶりなナイフを両腕で抱えて、戻ってくる。

 悠一はこれ見よがしなため息を吐いた。


「無理だって。……お前には、武器がない」

「ある」

「そうじゃない。リーチも短いし、力だってないだろ。それに、」


 ――元々"持っていない"のか、まだ"持っていない"だけなのか。


「ともかく、この話は終わりだ」


 悠一は食器を盛って立ち上がり、台所へ向かう。

 そんな悠一のズボンをカイリが引っ張って、動きを止めさせる。


「ある」

「…………」


 カイリは俯き、ナイフをさらに強く抱きかかえた。

 悠一は膝を折って視線を合わせ、いつものように、カイリの頭に手のひらを乗せた。


「僕が守る。カイリのことも……美翅のことも。だから、安心してくれ」

「……うん」


 カイリは悠一から視線を逸らして、小さく、頷いた。


***


 公園のベンチに腰を下ろした悠一。遠くから、高校の予鈴が微かに聞こえてくる。

 すでに授業が始まっている時間だ。

 そんな中、悠一はその場でメモ帳を開き、ぶつぶつと呟いていた。


「次はどこにするか……考えろ……考えろ……」


 そこで、不意に悠一の視界からメモ帳が消えた。

 慌てて顔を持ち上げると――そこには、つい、一週間前に出会った執行官の女性。

 灰音夏樹の顔があった。


「よお不良少年。また会ったな」

「……返してください」


 悠一はぶっきらぼうにメモ帳を奪い返した。


 ――いつから居た?

 ――ずっと聞かれていた?


 悠一は立ち上がり、自分より僅かに背の低い夏樹を見下ろす。


「ん? どうしたどうした? オレの魅力に、どぎまぎしているのか? 不良少年」

「……違います」


 悠一は夏樹に背を向けて、公園の出口に向かった。

 そんな悠一の背に、かかる声。


「――メモ帳の中身、見させてもらったぜ」

「…………」


 ぴたりと、動きを止める悠一。

 夏樹は悠一の背後に近寄ると、その肩に軽く手を置いた。


「連続刺殺事件の情報がずらり。それも、とんでもなく濃い密度でな。とても、素人が興味本位で調べました、ってレベルじゃない」

「……だから、なんですか」

「なに。世間話でもしようぜってお誘いだ。オレも、休暇中だったのにも関わらず、仕事にかり出されてさ。せめて、息抜きに若い男と話したくなったんだよ」


 悠一は無言で振り返り、夏樹を見た。

 それから「少しだけですよ」と言って、再び、ベンチまで戻って腰を降ろす。

 夏樹はご機嫌に鼻歌を口ずさみながら、その隣に勢いよく座った。


 それから長い脚を組み、リラックスした態度で空を見上げた。

 近くの砂場で遊ぶ子どもたちがはしゃぎ、彼らを見守るママ友たちの甲高い笑い声が公園ないでこだまする中……夏樹が言った。


「この辺りは、どうも物騒だな」

「普段はそうでもないんですけど」

「みたいだな。オレも温泉にでもと思って、羽根を伸ばしに来たらこれだ。この間、少年が襲われていた件。ここ数日続く捕食。そんなことが日常的に起きているのだとすれば、町民全体の危機意識があまりにも低い」

「まあ、事件は深夜帯にしか起きていないですし。それに――同じ県内だとしても、人口の少ないこの街には来ないだろうって……たぶん、みんなそう考えてる」

「はっ。もう数年もすれば――そんな考え、たぶん吹っ飛んじまうんだろうにな」


 夏樹は脚を組み替えて、悠一の方に首を回した。


「擬態種が何故、ミメシスと訳されるのか。少年は知っているか?」

「……え? さ、さあ……どうでしょう」

「擬態には、様々な意味がある。隠蔽をする為、あるいは獲物を欺く為……獲物を得る為の場合もあれば、繁殖の目的で擬態する事を覚える生物もいる。ミメシスとは、その中でも隠蔽する事を主たる目的とした存在に与えられた言葉だ」


 隠蔽的、標識的、攻撃、ベイツ型、ミューラー型、メルテンス型。

 夏樹の言う通り、擬態にはその適正に合わせ、学術的には全く別の名称が用いられる。


 悠一は貧乏ゆすりを激しくして、「それがどうしたんですか」と口にした。


「擬態種は、必ずしも人を喰う必要がない。つまり、擬態する意味すべてを孕んでいる。だからこそ、人間に成り済ました者と意味で、公式に"隠蔽的擬態(ミメシス)"と名付けられた」

「だからそれが――」

「世間話だ、って言ったろ?……油断をするな。奴らは、何処にでも現れる。自分自身すらも、疑ってかかるんだ。……なんてな」

「…………」


 押し黙った悠一。


 夏樹は視線をまた空に戻して……雲が流れるような速度で、無言の時間が過ぎた。


「……じゃあ、そろそろ。僕は、学校に行きますんで」

「おいおい、不良が素直に登校してどうする」

「……不良でも、学校くらい行きますよ」

「じゃあ、夜遊びに出歩くタイプか? 条例で、未成年は深夜十一時以降の外出は禁止してる」

「灰音さんは、警察じゃないでしょ」

「確かに。なら、オレには何も言えねぇな」


 くつくつと笑いながら……夏樹は平然と、「なら今夜、協力してくれよ」と言った。


「……は?」

「おいおい、不良少年は国語力が低いのか?」

「そうみたいです……ちょっと、僕にはよく、分からない言葉が聞こえたので」


 夏樹はメモ帳が仕舞われた、制服の胸ポケットを指さした。


「興味本位で危ない橋を渡るんじゃない。なんて、普通の執行官は言うぜ。でも、オレは興味が湧いた。性別や年齢だけならともかく、出身校から職歴。現住所まで調べる奴は初めてだ。――そりゃまるで、オレたち執行官の"それ"だ」


 夏樹は笑うのを止め、悠一に対して軽い調子で手を差し出した。


「連続刺殺事件。丁度、調査をしているところなんだ。オレは土地勘が無くてさ。しかも、こんな田舎だ。上の奴らは、オレがここに遊びに来てるって知ってて、押し付けて来やがった。何の面白みもない事件だ。『ちょっとした刺激』くらい、あってもいいだろ?」

「…………」


 あまりにも破天荒。


 悠一が夏樹に抱いた素直な感想はそれで……しかしその裏で、暴れ狂う心臓の鼓動は動きを止める気配を見せない。


 ――まさか、気付いているのか?


 そんな疑念が、悠一の頭の中で浮かび続けた。


「冗談……ですよね?」

「オレが冗談を言うように見えるか? まあ……時には言うかもな?」


 灰音夏樹が執行官であることは疑いようのない事実である。

 しかし、なればこそ、一般人であるはずの悠一を、死の危険が付きまとう防除に誘うことがあるだろうか。


「だがまあ……今のところは、本気のお願いだぜ? 頼むよ相棒」


 どれだけの時間、迷ったことだろうか。

 気づけば、悠一は差し出された手に触れていた。

 その行動が、薬になるのか……毒になるのか……まだ、分からないまま。

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