第7話

 目を覚ましたカイリは、揺れる箱の中に居た。


 閉じられた窓の外は明るく、横になったままの姿勢でも景色が移り変わって行く様子が分かる。今現在、自身は移動する為の乗り物に乗っていて、何処かへ搬送されている途中であるのだと、瞬時に理解する。


 即座に、臀部にあるはずの固い感触がないことに気付いた。薄目を空けて見れば、前の座席に放り投げられている。


 その隣にはハンドルを握るツナギ姿の男が一人。どうやら他にはいないようだ。

 微かに見える横顔に、カイリは覚えがあった。


 普段、施設内で時折見かけていた。廊下や中庭の掃除に勤しんでいる姿を何度か見た事がある。どうして、彼がここに居るのだろうか。


「…………」


 少なくとも、味方ではない。カイリにもそれだけはわかった。


 きょろきょろと、目が覚めていることを悟られぬように注意して当たりを伺う。手足を縛られたり、視界を奪われたりしていないことは、カイリにとって幸運だった。


 やがて――男は車を停車した。

 そこでカイリは反射的に瞼を落とし、脱力する。


「……まだ寝てるか。ふわぁ……疲れたな。トイレ行くか」


 男はカイリを残して車を降りた。

 カイリは男の気配が消えてしばらくし、身体を起こす。

 その場所には他にも多くの車が停まっていた。遠くで、煙草を吸う男の姿が見える。ツナギ姿の人間は他に居ないから、見間違えるはずもない。


 チャンスは、後にも先にも――今しかない。


「……っ」


 カイリは一世一代の博打に出た。


 このままでは何処へ連れて行かれるかもわからない。

 何より、あの女性研究者が最後に残した言葉を思い返す。


『逃げて』


 その指示を全うしなければならない。

 助手席からナイフを拾い、再びズボンに差し入れた。

 男が車を開けた動作を思い返し、見よう見まねでノブを引っ張るも、開閉しない。


 鍵がかかっている。


 しかし、カイリは車に乗ったことが初めてで、鍵がどこにあるのかも判断ができない。

 しばらくノブの周辺を弄っていると、大きく鍵が開く音。

 びくりと心臓を鳴らし、窓ごしに男が居る方へ視線を向ける。


 男は腰を落ち着け、二本目の煙草を吸っていた。少女は安堵の息を漏らし、そっと、車のドアを開いた。サービスエリアに降り立ち、そろりと逃げ出そうとした所で――。


「てめぇ――!」


 男の怒声。

 どうにでもなれと、カイリは全力疾走を開始した。


「はっ、はっ、はぁっ……!」

「待ちやがれ!」


 正攻法で逃げたところで、逃げ切れる訳がない。

 そこでカイリの取った行動は、道なき道へ姿を晦ますことだった。


「あ、ううっ!」


 山道を転がるように落ちていったカイリ。

 男はしばし唖然として、それから「しまった」と、慌てて車に戻った。

 携帯電話で、暗記した番号を叩く。

 通話が繋がったところで叫んだ。


「ガキに逃げられた! すぐに追跡して、位置を特定してくれ!」

『お前は何をしている。拘束をしろと、伝えたはずだ』

「そ、それは……手頃な物がなかったんだ。ま、まさか逃げるとは――」

『"持っていない"お前の利用価値など低いと……理解はしているのか?』

「分かってる! 今は一大事なんだよ! いいから早くしろ!」

『……了解した。生憎、正確な位置までは分からんが……情報は随時、そちらに送ろう』


 こうしてカイリの一世一代、一日をかけた脱走劇が幕を開けた。


 山道を転げ回った後、つかの間だけ意識を失っていたカイリであるが、逃走中であることを思い出して立ち上がった。


 痛む身体。

 軋む脚。


 走ろうにも、上手く動かせない。膝は血で滲み、脚は痣だらけだ。


「――っ」


 ――治ってしまえば楽なのに。

 そう考えていたカイリに、不思議な出来事が起こる。


「……あれ?」


 痛みが、一瞬で消失した。

 それだけではない。


 見れば、血が滲んでいた膝も、痣で黒くなっていた箇所も、きれいな肌色に戻っている。

 そこで、かつて研究施設で受けた授業について思い出した。

 "擬態種"は受けた傷を瞬時に癒やす事が出来るのだと。


「……にげ、なきゃ」


 痛みが消失した彼女に枷はない。

 走り出した彼女の首元で、明滅する"首輪"のランプが瞬いた。


***


 空が朱色に染まった頃。

 住宅街の中をカイリは走っていた。


「待ちやがれ!」

「はっ、はっ、はっ、どう、してっ」


 辿り着いたのは行き止まり。

 立ち止まったカイリの背後に、人影。


「てめぇ、舐めてくれやがって――!」


 男は長い鉄パイプを振り上げた。


 ――しかし、カイリはそこで光明を得た。

 男の動きには『殺意がない』


 それに――男に、カイリを殺すことは出来ない。

 そう決めつけたカイリが取った行動は、ある意味大胆なものだった。


「あ、うわぁぁぁ!」


 男の腹部に向かって、全速力で突進。

 腹部に思い切り頭を打ち付けた。


「がふっ、て、」


 カイリと男はもつれ合うようになって二度、三度と地面を転がる。その際、カイリは横腹に大きな痛みを覚えた。


「――っ」


 ――早く逃げなければ。


 痛みを抑えて立ち上がったカイリは、男に背を向けた。

 と、そこで背後からの絶叫。


「あああぁぁぁ、て、てめぇえええ!」

「な、なにっ」


 男は立ち上がると、血液が付着した服を大げさに叩く。

 それから、ぎろりと鋭くした視線をカイリに向けて言い放った。


「お、おおおおれの……血? ……ははっ、驚かせ、やがって。……てめぇっこの野郎!」

「はっ、はっ、はっ……」


 じんじんと痛む腹部。


 先程から、カイリは心の中で「治れ」と叫んでいるものの、治癒の進みは遅い。

 度重なる騒動の渦中にあったカイリの心中は穏やかでなく、意識的に身体欠損の治癒を行うまでの集中力が、この状況で確保できなかったのだ。


 しばらく走り、ここが何処なのかも分からないカイリは……ついに逃げ道を失い、正面から回り込んできた男と相対した。


「てめぇ、迷惑かけやがって……」

「っ、うわあああああ」


 カイリはズボンからナイフを引き抜き、鞘を捨てて構えた。

 男は少しだけ驚いた素振りを見せたが……にやりと、口元を綻ばせる。

 カイリが持つ脅威など、気をつけていればどうとでもなる。

 体格差、リーチの差、力の差。

 成人男性が、十にも満たない身体の少女に負けるはずもない。


「、……けてっ。たす、けて……誰、か」

「しばらく眠っててもらうぜ」


 そう言い放ち、男がまさに飛び込もうと、画策をしたその瞬間。

 二人を遮るようにして、人影が飛び込んでくる。


「だ……れ……?」


 小さく呟かれた声は、カイリ以外の誰にも届いていない。

 それからしばらくして――現れた男の人は、瞬く間にツナギの男を撃退した。

 何か長い棒のようなもので、華麗に追い払ったのだ。

 ぼぅっと、終始、カイリはその動きに見とれてしまっていた。


「ふぅ……」


 男の人が息を吐き、振り返る。

 びくりとして、カイリは背筋を伸ばした。


「キミ、大丈夫?」


 かけられたのは、優しげな声。


「あ……う、うん……ありが――」


 お礼を、伝えようとして――。

 カイリの中で何かが切れた。


 ぷつんと、意識が遠のいていく。

 カイリがその青年の顔は初めて見るはずなのに……なぜか、懐かしさと悲しみを覚えていた。

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