interlude.回想戦
第6話
物心の付いた少女は、小さな部屋の中に立っていた。
少女に過去はない。
未来だってない。
少女は気がついていたからだ。
人間の年齢に換算してもまだ小学校に入学したばかりくらいの少女には、『ニ番』という名前が与えられた。
少女の一日は、どの日を切り取っても不変のものだった。
起床時間に目を覚まし、身体の清掃。
身体を動かす為のエネルギーだと言われ、形のないどろどろした茶色い食べ物を胃に納める。
午前中は研究と銘打たれた検査を続け、午後になると勉強と運動を行った。
少女にとって一番好きな時間は、勉強の時間だった。
授業を受ける程に伸びる知性。
言葉を多く知らないからこそ辿々しい口調になるが、少女の頭脳には生まれ落ちて一年とは思えない程の知性が備わりつつあった。
しばらくそんな暮らしをしていて、少女はふと疑問を持った。
周囲の人間は彼女を『二番』と呼ぶ。
であれば、『一番』がいるのではないか? という当然の疑問。
その疑問を、教師の一人に投げかけた。
白衣を着たその男性は簡素に、「一番はもういない」と、ただそれだけを言った。
――一番はもういない。
何故いないのか、どこにいるのか……そこまでの疑問はまだ、少女には湧いてこなかった。
ある日、少女は自らが擬態種という生物であることを習った。
別段、驚きは少なかった。
なぜなら、彼女の"無意識"が常に求めていたからだ。
今この、目の前に存在する研究者が捕食対象であり、普段から口にしている食事の何倍も麗しい味をしているのだと。
それでも、少女には研究者たちをその手にかけようだなんて……そんな考えはついぞとして浮かばなかった。
理由は幾つかある。その一つとして妥当なものは、やはり首輪の存在だろうか。
その機械には、幾つかの特性があった。
脈拍から身体的異常の検知を行い、施設内における位置確認。
しかし――最も重要な機能は別のところにある。
研究者たちが握るリモコンの操作において、即座に抗体を致死量、血管内に注入可能な状態とされているのだ。
抗体は、擬態種にとって唯一の恐怖だ。謀反行為など行うものならば、待っているのは逃れようのない死。
だからだろう。
少女は他に数名、研究施設内で首輪をした人間を遠目に見たことがある。その誰もが、研究者にこれでもかと言わんばかりに気を遣っていた。
ただ……彼らの場合は少なからず、研究者たちと密な交流を持っているように、少女の目には映っていた。
服装も薄っぺらい布切れ一枚ではなく、白衣だったりツナギだったりと多様で……首輪以外にヒトガタであると判別可能な材料がない。
少女は他のヒトガタとの交流が固く禁止されていたから、大人である彼らが現状をどう思っていたのかは、知るよしもなかった。
「……それでは、今日の検査は終了になります」
「…………」
夜――宛行われた部屋の中には、少女ともうひとり……女性の研究者が居た。
清潔な短い髪の毛と、理知的な印象を与える細いフレームの眼鏡。きつく釣り上がった瞳から、少しだけ怖い印象を与えてくる。
女性は、少女にとってほんの僅かだけ、特別な存在だった。
口数が少なく、感情表現が乏しい女性であったが、彼女だけは少女を特別扱いしなかった。その他多くの研究者たちに対する態度と、少女に対する態度に如何ほどの違いも見せなかった。
加えて――女性だけは、少女のことを二番と呼ばなかった。
「貴方」だの「キミ」だのと代名詞でしか呼ばれなかったから、そこにどれほどの違いがあるのかなどわからないが、少なくとも少女にとってみれば大きな違いだった。
この頃には、二番という呼称が名前などではないことを知っていたからだ。
「……あ、あの、」
「はい。どうしました?」
部屋を出ていこうとした女性を、少女は呼び止めた。
視線は斜め下を向いたまま、脚や手をもじもじとさせる。
他のどの研究者がこの部屋に居たとしても、皆無視して去ってしまうだろう。
しかし女性は少女に近づき、膝を折り曲げて視線を合わせ、言葉を待つ。
「どうしました?」
「……な、」
「はい」
「な、なまえ……わたしの、なまえって、……なんて、いうの?」
「…………」
女性は顎に手を当てて、考え込むような仕草をした。
それから「そうですね……」と意味深に呟くと、「分かりません」と続けた。
「わからな、い?」
「ええ。というか、恐らくありません。『二番』というのはあくまで管理番号ですし、そういえば貴方に名前を付けようという話は、これまで一度も出てきませんでした」
「……そう、なんだ」
何処か淋しげに俯いた少女。
女性は立ち上がり、後ろ頭を掻く仕草をしてそっぽを向いた。
「なので、今、名付けましょう」
「……え?」
「丁度、貴方をどう呼べば良いのか、困っていたところです。そう、ですね……」
女性は人差し指を立てて言った。
「カイリ、なんてどうでしょう」
「かいり……」
「貴方は、良くも悪くも、他のあらゆる生物から『乖離』した存在です。後は、個人的な趣向から『海里』とも掛けています。果てしなく広がる悠久の海を、これから先の人生に準えてみました」
「え、っと……?」
「ああ。すみません。つい、白熱してしまいました。……人に名前を付けるのはこれで二度目なのですが、あの時もこんな調子だった気がします。反省、ですね」
そんな風に少しだけ狼狽える女性を見て、少女は満面の笑みを浮かべた。
「あの……」
「はい?」
「こういうとき、って。なんて……」
女性は少女の頭を軽く撫で、「ありがとうが適切かと」なんて言った。
「……ありが、とう」
「……いえいえ。どういたしまして」
***
――その日は突然訪れた。
深い眠りについていたカイリは、爆発音を伴った大きな振動で目を覚ます。
「……な、に?」
廊下の方が、何やら慌ただしい。部屋の内側から鍵を開く手立てがなく、この部屋には開閉が可能な窓もない。
布団をたぐりよせ、ベッドの端に身を寄せ、部屋の角に背中を預けて小さく縮こまった。
やがて――簡素な電子音が聞こえると、部屋の鍵が解除され、扉が開く。びくりと身体を震わせた少女であったが、現れた人間の顔を見るなり安心感に包まれた。
「……よかった。まだ、無事だったのですね」
少女の担当研究員である女性は、ほっと息をついてみせた。
その左腕は、腹部を抑えている。
少女が見やれば、信じられないくらいに溢れ出た――血液。
少女は慌てて駆け寄り、女性に触れようとして……。
「触るなっ!」
「っ」
突然の激高に、びくりとした。女性は慌てて、いつもの落ち着いた口調を取り戻す。
「……いえ、すみません。でも、触れない方が良いです。うっかりでも、血液が貴方の顔周りに付いたとしたら……一大事になりかねません」
「え、っと」
「口に含んでしまったら――という意味です」
「あ……」
「ともかく、時間がありません。逃げてください」
「……にげ、る?」
いつも小難しく、具体的な話をする女性にしては、抽象的な指示だった。
逃げると言われても、何処へいけばいいのか、どういけばいいのか……カイリには、何一つ分からない。
「これを……」
女性が懐から取り出したのは、鞘に収まった、一振りのナイフだった。
刃渡りは小さいが、カイリが持つには仰々し過ぎる道具。
女性はナイフに付着した血液を白衣で入念に拭き取り、カイリの足元に投げて渡した。
「これ、って……」
「武器です。言わずとも、聡明な貴方なら、その意味が分かるでしょう。さあ、拾って。ズボンに忍ばせて、決して、悟られぬように」
カイリは言われるがまま、ナイフを持ち上げた。
……重いが、振り回せないほどじゃない。
カイリはズボンと臀部で挟むようにして、鞘に収まったナイフを差し入れて、ズボンの紐を固く縛った。
女性はそれを確認し、口を開く。
「もし、そのナイフが必要に迫られる状況となったら――そのナイフで、思い切り"自分"を刺してください」
「――え?」
「そして、貴方の血液がべっとりとついたそのナイフで、戦うんです。大丈夫。あなたにはそれが出来るし、それはあなたにしか出来ない戦い方」
「えっと、えと、えと! な、何が……」
「ともかく、ここから出て、走って。幸い、近くに奴らは――」
言葉は続かず、女性は前のめりになって倒れた。
「――っ」
駆け寄り、触れようとして――つい先程女性から受けた指示を思い返す。背中から、ぱっくりと傷の開いた彼女は血の海に沈んでいる。
『触れてはならない』
「あ……――」
扉の外には、見知らぬ人間。
室内の暗さと比例したように明るい廊下からの逆光で、容姿の判別がつかない。
「こいつか?」
「ええ、……試験体二号で間違いありません」
廊下から他に数名、人影が覗く。一番先頭に立っていた人物が口を開いた。
「よし、なら連れて行く。とりあえずは高速に乗せ、遠くまで運べ。交渉材料だけではない。こいつが持つ利用価値には、計り知れない物がある」
不意に鼓膜を震わせた、聞き慣れない金属音を皮切りに――。
そこで、カイリの記憶は一度、途切れた。
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