《黒紅》序 - 陸
溌剌とした、けれども耳心地の良い美しい声と共に、
「何だこの女、司書……だよな?」
「俺の所属する班と史を担当してくれてる――もう『てた』なのか――司書さん。見ての通り慌ただしい」
「
そもそも瑠璃の場合は、ノック以前の問題だったような。そう言いかけ、黒紅は怒られそうな気配を感じ取り、すんでところで飲み込んだ。
同時に、転がり込んで来た司書の
往々にして、この図書館の慣例としては、人事異動での部屋交代は所属「史」の交代をも意味すると、以前どこか、職員同士の会話で小耳にした覚えがあった。部屋交代を伴わない人事異動の場合は、所属「史」は据え置き、所属「科」のみの異動となると。
つまるところ、新年度からは元植物史の黒紅が人物史、元人物史の瑠璃が植物史となるのであろう。
そんな風に思案にふける黒紅を、現実世界へ引き戻すように、美しい闖入者は甘ったるい声を上げる。
「その娘、きっと腰に黒いリボンを巻いてる娘でしょぉ?」
床につく程長い丈の純白のドレスを、ふりふりと左右に機嫌よく振りながら「司書さん」は無遠慮に近づいて来る。細く嫋やかな腰には、薄黄色のリボンが結えられている。
「そう。恐らくその女だ。いつも不機嫌そうな顔をしている。いや、正確には口元からしか機嫌の良し悪しは読みとれないのだが、常に口角が下がった感じだ。あと厳しい」
「違うのよん! あれはね、何か考え事してるだけなのん! でも、厳しいのは本当。姉妹の中で、一番時間に厳格なのがあの子なのね。私もよく遅刻しては怒られるのん! 末の娘なのに、しっかりしてるというか、し過ぎているというか、う~ん……もっと姉を敬う気持ちを持つべきだと思うのねん」
亜麻色の巻き毛を、透き通る様に白く長い指でくるくるといじりながら、薔薇色の紅をひいた唇を尖らせる。
「その『のんのん』言うのはなんなんだ」
「可愛いでしょぉ? 可愛いからやってるのよねん」
「馬鹿っぽい」
「やだぁ~。この子、可愛い眼をしてるのに中身は全然可愛くない~!」
司書と瑠璃、二人の奇妙に弾んだ会話を、感情を忘れた様な眼で視ていた黒紅はとうとう重い口を開けた。
「司書さん」
「ん~? 何かしらん」
「俺に何か云う事あるんじゃないですか」
一呼吸。
そうして、あーーっ、と甲高い声。司書はその驚きを体現するかのように両手で自身の美しい長髪を引っ張った。
その様子を、黒紅はやはり感情を何処かに置いてきた眼で視つめる。
「ごめんなさい、黒紅~!!」
「忘れてたんですか?」
「……はい、なのん」
いじけたようにくるくる髪の先を弄る。
「睦月以前から決まっていた事だったのだけれど、そのぉ、まだまだ先だしぃ? 後でいっかって」
「後回しにしていたんですね」
「違うのよん! ちゃんと他の子達の分は手配していたの! ただねん……黒紅ちゃんのだけ…えへへ、書類どっかにやっちゃってて、ついさっき思い出してもう直接伝えなきゃっ! てここに来たの」
「黒紅、この司書はいつもこうなのか? こんなので、今までよく瑠璃たち職員の管理が出来ていたものだな」
やだぁ~、と照れたように頬に手をあてる司書を、黒紅は瑠璃以上に冷めた眼で視る。
「もうそれに関しては追及しないので、俺の新しい部屋の鍵と配属先書物庫の鍵を下さい。着替えもこれからしないとだし……。始業開始の時刻は伸ばして下さい」
「任せて! 館長代理にはもう先に伝えてるのね! というか、新年度早々黒紅ちゃんだけ遅れてくるのは体裁が悪いからって、代理が黒紅ちゃんの班の出勤時間を一時間後ろ倒しにしてくれたの。あっ、でも確か
そう一方的に捲し立てると、黒紅の手に二本の鍵を押し付けた。白銀色をした冷たい鍵には、それぞれの場所だと解る紋様が彫られている。嫌でもこの突発的に起こった、自身が好しとしない現実が、ひんやりとした温度と共に押し寄せてくる。
「それで、俺の新しい班については――」
「新しい班についてはひ・み・つ。大扉前の黒板に書いてあるから、其処を視てちょうだい。部屋については瑠璃ちゃんと交換の形だから、瑠璃ちゃんに教えてもらってねん。さすがにここの職員全員分の部屋番号は覚えてないわん。……入れ替わりも激しいしね。それに、私たちは書物庫の外の事は基本管轄外だから、貴方達の使う医務室や娯楽施設に関しても与り知らないのよ」
私達はあくまで司書であって、それ以外の仕事は関知しないのん。
司書はにこやかに甘い声で言い放った。
「……そういいながら、俺の人事異動の件は忘れていましたよね」
「それに関しては言わないで~」
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