《黒紅》序 - 伍

 窓の向こうへと意識を向けていた黒紅くろべにを、瑠璃るりの声が呼び戻す。

 桟に両腕を凭せ掛け、こちらを見下ろす姿勢をとるのは無意識だろうか。逆光になっているにも関わらず、その深い青色だけがしんしんと、端正な面持ちの中で深く輝きを放つ。


「は? 何でだ」


 一拍置いて、黒紅が返答する。


「瑠璃の部屋で、あんたが呑気に寝ていたからだ」


 瞳に魅入っていたことを気取られぬか内心焦っていた黒紅は、瑠璃の意外な返答に「え」と間抜けな声が零れた。また高圧的な一言が、瑠璃の口から飛び出すかと思われたが、瑠璃も同様に「え」と気の抜けた返事を一つ。

 お互い、きょとんと視つめ合う。


「? 此処は俺の部屋だけど…」

「? 黒紅は人事異動の件で、内示が来ていないのか」

「? えっ、何も来てないぞ」

「? 瑠璃のところには、弥生の頭には通知書が部屋に来ていたぞ。だから、今日、其処に一緒に書かれてあった部屋まで来たんだ。部屋も入れ替えみたいだしな」


 そしたらあんたがいた、と。瑠璃が言う。


「瑠璃の班からも瑠璃以外に一名、異動がいた。そいつは、通知が来て早々に部屋を入れ替わっていた。瑠璃もさっさと移動したかったが、どこかの誰かさんが、一向に、全く、何も音沙汰なかったから、移動するにも出来なかったのだ。一応、相手にも都合があるだろうと考えてな、声はかけずに待っていたんだ」

「はぁ」

「そうしたら、だ。期限の昨日まで一向に出向いてこない。連絡も来ない。謝罪もこない。……さぞ無礼で仕事が出来ない、愚鈍で蒙昧もうまい。厚顔無恥。性根の腐った低俗な醜男ぶおとこの顔と眼を、一眼視ようとわざわざ別棟まで来たんだ」

「――どうしてそれを早く言わないんだ」

「全部知っていて、嫌がらせで呑気に寝ているのだと思っていた」

「……はぁぁ。そんな訳ないだろぉ……」

「うるさい」


 叱責が飛ぶ。

 しかし、黒紅にとってはそれどころではない。異動の話など寝耳に水である。どうして誰も教えてくれなかったのか。否、異動に関しては本人以外に知りようがないから、本人が口にしない限りは他人が知る由もないのだろう。

 それにしても、司書――彼女は当然知っていそうなものだから、少しぐらい気を回し、声を掛けてくれても良いのではないだろうか。

 へらへらと陽気に笑い、黒紅を見つけては絡んでくる彼女の姿を思い浮かべた。そういえば、彼女は同じ司書業をしている姉妹達に「お姉さまったら、抜けてる~!」「これ、また忘れたら編者ちゃん顔真っ赤にして起こりますよぅ」などなど、と詰められているのを黒紅は度々眼にした。そして、あの司書は毎回決まって「後でやるから放っといてよん!」と、どこかに行ってしまい、そのまま放置され司書室のカウンターで山積みになる書類の束を視たことがある。


「……ありそう。忘れてそう。あの紙の束に埋もれてそう」

「急に何だ。大きな溜息を吐いて、黙り込んだと思ったら、突然口を開いて訳の分からない韻を踏み出すし。瑠璃にも分かるよう説明しろ」

「いや、たぶんもうすぐ――」


 慌てて来ると思う。

 そう黒紅が口を開こうとした矢先、ばたんっと大きく扉が開かれる音と共に、どたどたと女性が転がり込んで来た。余程慌てて来たのか、肩で息をしている。そして、思い出したかのように「あっ!」と言うと、何故か扉を閉めて出て行ってしまった。


「今の何だ」

「たぶん、部屋の確認――」


 部屋の確認だと思う。

 またもや黒紅が口を開こうとした矢先、ばたんっと大きく扉が開かれる音と共に、女性が転がり込んで来た。


「元植物史、現人物史黒紅の部屋だった! 間違いなかったのん!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る