《黒紅》序 - 壱

「ただ、そばにいて。ずっと生きていて欲しかった」


 誰かの押し殺した様な、溢れ出す感情を噛み殺す様な、そんな声。夢の様な、白昼夢のような。

 それは誰かが、震える声で発する――そう、泣きながら発せられた哀願だという事に、霞がかった黒紅の頭は漸く解を出す。

 このような夢幻は、よくみる。

 人間たちの記憶と記録を管理するこの場所で過ごしていると、よくみるのだ。人間を模した姿をしているからなのか。無防備な意識の中に、人間達の思念や何やらが日が落ちていくが如く、妙に気安く入り込んで仕方がない。

 冷気に体温を奪われないよう、もぞもぞと身を揺すりながら、寝台からずり落ち掛けている毛布を手繰り寄せる。気持ちは微睡の綿海の中、眉間に皺を寄せながらも頑なに、黒紅はその瞳を開こうとはしない。バタバタと彷徨う手だけが、静謐を極めた室内にて、ただ一つ騒々しい。

 暫くそうしている内に、一向に毛布を掴めない違和感に気づいたのか、「ん……」と、薄い唇から言葉が零れ落ちた。寝起き特有の掠れた声が、しんと静まり返った室内に木霊する。

 今しがたまで、はっきりと耳元で発せられたかに感じられた声は、ひんやりと冷え切った部屋の温度と共に、どこかへ霧散して、いつの間にやら消えてしまっていた。

 その頃にはもう、黒紅の脳裏からは、先程の声の事など綺麗に消え去っていた。

 ゆっくりと、思い瞼を持ち上げる。

 黒く丸い月。それを取り囲む、視界一面に広がる青紫の美しい景色が、寝ぼけた頭に響き渡る。それは、月の光に照らされた夜空や海の、上澄みだけを掬い取って閉じ込めたような色だった。無心で眺めていると、その静寂さに飲み込まれそうな錯覚が思わず生まれてしまう程、不可侵の色彩がそこにはあった。

 深く深く、静かな青紫。


「……ん?」


 しかし、黒紅は事の異常さに気づいて声を上げる。綺麗だなぁ、などというありふれた平坦な感想も、瞬時に消え失せる。

 何故、いつもの天井が視えないのか。

 黒紅の内心の揺らぎに反応したのか、視界の中心の黒が、カッと大きく花開いたように感じられた。


「見つけた」

「うっわ!」

「さっさと出てけ」


 それが瞳孔だと気づいたと同時に、至近距離から叱責が飛ぶ。


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 誰! 誰なんだきみは!」


 この場所で身体が作られ、目醒めて、意識を持ち出してからは、もう随分と経った。そんな黒紅が、ここにきて初めて抱いた衝動。

 驚きすぎると、身体は動かなくなる。言葉だけが早足で駆けて行って、身体を動かそうとする気持ちを忘れ去ってゆく。

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