第8話 同僚に結婚報告されて凹んでいたら、スパダリ副団長に呑みに誘われた件
「リット、店はここでいいか?」
副団長から「少し話がしたい」と言われ、ついてきたリット。
リットは副団長が親指の先を向けた店を見て、目を見開く。
「こっ、ここは……!」
王都の歓楽街に立ち並ぶバーの中でも、一等高級だと言われているバーだった。独身平民のリットはもちろん近づいたことすらない。黒塗りの壁、煌々と辺りを照らす照明、店の前にいる黒服達の身なりも隙がない。
副団長がバーの入り口に近づいても、黒服達が止める様子はなく、リットはきょろきょろ周りを見ながら後ろをついていく。店内も黒を基調とした重厚感のある空間だった。なんかよく分からないが高そうな匂いもする。
「い、いいんすか、旦那! 高そうな店っすよ!」
「金の心配は不要だ。ここは俺の行きつけの店だからな」
敷き詰められた赤い
一方、副団長は慣れた様子で、外套を翻しながら店の奥へと進んでいく。
(さすが旦那だぜ……。こんな高そうなところで呑んでるのかよ)
バーカウンターに近づくと、副団長はリットに座るよう促した。
リットはカウンターの中にいる男にぺこりと頭を下げると、脚の長い丸椅子に腰掛ける。こんなに座りにくい椅子は初めてだ。座ると足先が床につかない。
それとなく隣りの足元を見る。副団長の、黒皮ブーツに包まれた足先はばっちり床についていた。
(足、ながっ……!)
座高は同じぐらいなのに、足の長さがまったく違う。ここまで違うと逆に嫉妬すらしない。
「おや、閣下。奥様以外の方をお連れするなんて珍しいですね」
カウンターの中でグラスを拭いていた男の店員は、副団長の姿を一瞥するとリットににこやかな顔を向ける。男の店員は五十は過ぎているだろう。品の良い顔には皺が目立つ。白いものがところどころ見える髪はきっちり後ろに流していた。
「……お忍びだ。失礼のないようにな」
「承知いたしました」
(お忍びって……)
副団長の言葉に、リットは苦い顔をする。この店はいかにも高級そうな店で、店員も金持ちを見慣れているだろう。自分のことも一目で取るに足らない平民だと見抜いたに違いない。
リットは心の中で卑下すると、視線をカウンターの上に落とし、口をまっすぐに引き結んだ。
その時だった。
リットの肩がぐっと掴まれる。
「マスター、このリットは俺の大切な友人なんだ」
「おお、そうでございましたか」
隣りに座った副団長がリットの肩を抱き、自分の方へ引き寄せたのだ。落ち着いた耳障りの良い声。ふわりと香る柑橘のような匂い。整った顔が近くにある。
リットに男色の気はまったくないが、それでもドキリとした。
「はは……。友人なんて。旦那、冗談がきついですよ」
「俺は本気だがなぁ」
副団長は肩を竦める。副団長の残念そうな顔に、リットの胸は軽くなった。同僚の結婚報告で凹んでいたが、せっかく副団長が誘ってくれたのだ。ここは楽しまなきゃ損だろう。
「振られてしまいましたなぁ、閣下。さて、リット様、閣下、何をお飲みになられますか?」
「リット、何がいい? 一通りの酒は揃っているぞ」
「旦那と同じもんでいいです」
リットはそこそこ呑める方だが、酒には詳しくない。いつも酒屋で一番安い酒を買って、部屋でさみしく一人で呑んでいる。数年前までは仕事帰りに同僚達と呑みに行くこともあったが、今ではそんな機会もめっきり減ってしまった。リットは現在三十五歳。仲が良かった同僚達は全員結婚した。
「そうか。では、俺はモスコー・ミュールを。リットには
「何でも食えますよ」
「今日は北国から良い
「では、それを出してくれ」
酒は同じものでいいとリットは言ったが、副団長は別のものを頼んだ。
先にリットの
「閣下の味覚は独特ですからな。同じ酒は勧められません」
「へえ、そうなんですか?」
モスコー・ミュールは北国の強い酒に
「辛くて飲めたもんじゃないと思うぞ?」
円錐を逆さにしたようなグラスがカウンターに置かれる。確かに、リットが知っているモスコー・ミュールより濃い黄金色をしていた。辛いということは、生姜が多く入っているのだろう。
二人はお互いのグラスの脚を持つと、グラスの端を合わせた。カンッと小気味良い音がする。
リットは麦酒が入ったグラスを傾ける。高そうなバーで飲む麦酒は喉越しも最高に良かった。
「はぁっ……美味いですね! こんなに美味い麦酒は初めてです」
「良い呑みっぷりだな」
副団長はははっと短く笑うと、自分のグラスを傾ける。酒を呑んでいるだけだというのに、実に絵になる。
(かっこいいなぁ……)
副団長が染め物工場にやってくるたびに、そこで働くおばちゃん達がきゃあきゃあ黄色い声をあげているが、当然だとリットは思う。副団長はどこからどう見ても落ち着いた大人のオトコで、男の自分から見てもかっこいい。
おばちゃん達は副団長のことを「変わり映えのしない平凡な毎日に、非日常を与えてくれる貴重な存在」だと言っていた。
(……今夜のこと、おばちゃん達に話したら嫉妬されるだろうな)
副団長はおばちゃん達のアイドルである。おばちゃん達は副団長のことを「危険な香りがするクールな外見が堪らない」といい、あらぬ妄想をしては休憩所で語り合っている。
今、皆の憧れの存在と二人きりで呑んでいる。
そう思うと、沈んでいた気持ちが晴れてくるから不思議だ。
「今夜のこと、工場のおばちゃん達に話したら羨ましがられるだろうなあ」
「そうか?」
「そうですよ! 旦那はおばちゃん達の憧れなんですから。おばちゃん達は旦那のこと、いつも『日常を忘れさせてくれる存在だ』って言ってますよ」
「騎士は人に見られる職業だからな。生活感を出さないようにしているだけだ。俺にだって日常はあるぞ? ティンエルジュ領へ戻れば、妻の実家に頭があがらない婿だ」
(妻の実家かぁ。そういえば、旦那はお嬢の亭主なんだよなぁ……)
リットは副団長の妻の顔を思い浮かべる。
背が低くて可愛らしい顔をしているが、特別美人というわけではない。性格も、田舎の気の良い姐さんと言った感じで、良くも悪くもお嬢様っぽくない人だ。
(何で旦那はお嬢と結婚したんだろ?)
もっと美人でおしとやかな女性と結婚できただろうにと思ったが、人には人の事情がある。
いい歳して未婚の自分が考えることではないだろう。
「……仕事でも色々あるしな」
「騎士様は大変そうっすよね」
「そう、色々大変なんだ……。聞いてくれるか? リット」
「へっ、あ、はい」
副団長の真剣な視線が向けられる。リットは塩をかけたキャベツを喰みながら、こくりと頷いた。
「少し話がしたい」と言われていたことを思い出しながら。
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