番外編SS 妻には格好つけたい
彼の妻が無事退院し、二週間ほど経った頃。
その日の昼過ぎ、彼は詰所内にある事務室の自分の机の上で、額を押さえていた。
(頭が痛い……)
痛み止めは一応飲んだが、飲むタイミングが遅かったのかなかなか効かない。額に鈍い痛みを感じる。
妻が入院している間、三歳になる息子を引き取って一人で世話していた疲れが今になって出たのかもしれない。
王城敷地内には王立騎士団所属者用の託児所があり、二十四時間いつでも子を預けることが出来たが、さすがに預けっぱなしには出来ないので、まめに迎えに行っていた。夜になると息子は母がいない寂しさからぐずり、朝方まで抱っこして宥めた日もあった。
妻は子ども達は皆父親っ子だと言うが、その場にいない親の方を恋しがるものだと思う。
睡眠時間が削られても仕事は休めない。部下の報告書にはすべて目を通さねばならず、警護も滞りなく行われているか確認する必要があった。各々の力量を見極めて仕事を振り、無理があれば一から編成を考えなくてはならない。副団長の仕事は多岐に渡った。
出戻ってきた王女達の機嫌を取り、些細なことでもクレームを入れてくる貴族に頭を下げる日々。
彼の精神疲労は極限まで溜まっている。
「閣下」
「……なんだ?」
団長補佐官のリーリエに呼ばれたが、顔を上げる気力はない。
「あの……奥様がいらっしゃいました」
リーリエは遠慮がちに報告する。
彼は痛む額を手で押さえながら立ち上がった。
「行こう……」
◆
「旦那様、この度はお世話に……ど、どうされたのですか?」
詰所の応接室へ行くと、そこには首まで詰まったかっちりとした藍色のドレスに身を包んだ妻がいた。
栗毛の髪は首の後ろで丸い形になるように纏められていて、顔には化粧が施されている。
誰かと会う約束をしているのかもしれない。
妻は手提げ袋を二つ持参していた。
「珍しくめかし込んでいるな。王城へ行くのか?」
「ええ……。実家から乾物が送られてきたので、旦那様と陛下へお裾分けしようと思いまして。でも……」
彼を見つめる妻の眉がこれでもかと下がる。
「どうかしたのか?」
「旦那様、お顔色がものすごく悪いですよ。……リーリエさん、どこか休めるところはありませんか?」
「はい、仮眠室がございます。個室の利用状況を確認致しますね」
妻の言葉に、リーリエは応接室から足早に出ていく。
リーリエの後ろ姿を見送ると、彼は妻に向き直る。
「……そんなに顔色が悪いのか?」
「もう、真っ青ですよ? さあ、私に掴まってください」
別に歩けなくなるほど体調が悪いわけではないが、大人しく甘えることにした。子育て中で忙しい妻の身体にはなかなか触れられない。妻の肩にするりと腕を回す。香水くさい女や化粧が濃い女は好きではないが、妻が化粧をしたり香水を纏う分には気にならない。むしろ綺麗にしている妻は好きだ。
(柔らかくて、良い匂いがする)
少しだけ元気になれたが、妻に抱きついていたいので一人では歩けないふりをする。
「実は今朝から体調が悪かったんだ。だが、クリスティアン団長が王城警護に行っていてな……。俺が詰所に残らねばならなかったのだ」
体調が悪くても頑張って働く殊勝な男ぶると、妻の青い瞳が揺れた。
「まぁ、騎士様は大変ですね……。でも、出撃命令が無かったようで良かったです」
今朝方、痛む頭を抱えてふらふらしていると、見慣れぬ男を詰所の周辺で見つけた。軽く痛め……問い詰めると他国の間者であることが発覚したので、とっ捕まえた。
何故か体調が悪い時の方が嗅覚が鋭くなるのか、曲者の捕獲率は良くなるし、戦果も上げやすくなるのだが、彼は黙っておくことにした。朝から戦っていたと妻が知ったら余計に心配するだろう。
「心配してくれてありがとう」
彼は空いている方の手で、額に下りた前髪を掻きあげる。
具合が悪い時でも、妻相手に格好つけるのを忘れない。
いつまででも、妻に愛されたいからだ。
「あっ……」
格好つけていると、背後にある窓の外から殺気を感じた。妻も気がついたようだ。咄嗟に手首のスナップを利かせて背面へ向かって銀の暗器を投げつける。
その刹那「ぐぁあっ!」と男の悲鳴が聞こえた。どさりと何かが落ちる音も。
彼は懐から小さな笛を取り出すと、口に咥えて「ピッ」と短く吹く。
これで部下達が曲者を片付けてくれるはずだ。
(まだ仲間がいたとは……)
彼は心の中でチッと舌打ちする。
あやうく大事な妻を危険に晒すところであった。
「旦那様、今のは?」
「……蝿が飛んでいたから駆除しただけだ」
身体を動かしたら頭痛が多少マシになった。
やはり騎士は戦ってこそ騎士だ。
◆
仮眠室はどこも使用中で、仕方なく来客用の休憩室で休むことになった。
騎士や兵が使用する仮眠室は簡易ベッドとテーブル、丸椅子があるだけの簡素な部屋だが、来客用の休憩室には応接室同様、ソファとローテーブルがある。給湯室が隣接しており、さらにその奥にはシャワールームが併設されたベッドルームがあった。騎士団は遠方から剣術指南役を呼ぶことがある。そういった来客を泊めるための部屋だが、すぐ近くに宿があるのでここはあまり使われることはない。
ソファへ座ろうとする彼に、妻は言う。
「旦那様、ベッドで休んだほうが……」
「あそこは外の音が聞こえない」
外で大きな騒ぎがあれば、駆けつけなければならない。彼は先に妻をソファに座らせた。そして、制服のポケットからハンカチを取り出すと、妻の膝に敷く。
夫の行動が理解出来なかったのだろう。妻の頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。
「十分でいい。膝を貸してくれ」
そう言うと、彼はぼすっと音を立てて妻の膝に頭を置いた。ソファの肘枠に脚を乗せ、軽く組む。
こんな不躾なところを団長のクリスティアンに見られたらさすがに咎められそうだが、クリスティアンは夕方までここへ戻ることはない。今は正午過ぎだ。
妻の太ももはふわふわで、頭や首の納まりが良かった。頭を置いた時は緊張のためか腿に力が入っていたが、次第に緩まった。
「重いか?」
「大丈夫です。……どうぞお休みなさいませ、旦那様」
見上げると、妻は困ったように笑っていた。
(やっと薬が効いてきた……)
額から痛みがすうっと引いていくと同時に眠気を覚える。
彼はそっと瞼を閉じた。
<完>
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