第37話 軍病院にて
(思っていたより、酷い怪我じゃなくて良かったわ……)
彼の妻はほっと胸を撫で下ろす。診断結果は軽い脱臼と打ち身だった。
彼女は昨夜から軍病院へ入院していた。肩から腕にかけて吊るされた三角巾が痛々しいが、医者の話では三週間ほどで日常生活に戻れるという。
(でも、三週間は長い……!)
妻はぎりっと奥歯を噛む。
やっと三歳になる幼児と暮らす母に、三週間の三角巾生活は長過ぎる。
なお、退院も三角巾が取れる三週間後で、入院している間、夫がエミリオを預かってくれることになった。
王都へ移住してまだ一週間ほど。
さっそく夫にエミリオを預けることになってしまい、申し訳なさで胸が痛む。
「はああ……」
ため息をつきながら歩いていると、ふと前方に大きな背中が見えた。
(あれは……)
銀髪を頭の後ろで括った大男。眼帯の紐らしきものも見える。ぎょっとした妻は、とっさに物陰に隠れた。
(あの人は、地下闘技場で旦那様と戦っていたアスタクレスさん……!?)
どうしてこんなところに。夫との試合の後に、怪我でも見つかったのだろうか──心臓をばくばくさせながら、妻はアスタクレスの様子を覗きみる。
妻の頭の中では、長女テレジアの言葉が再生されていた。
──「アスタクレス氏は十六年前に滅んだ西の帝国の将軍だった……。帝国四将の一人だったアスタクレス氏は、王の家族を逃すための隠し門の警護をしていたらしいわ。そして、父上がいた連隊はその隠し門を突破した……。アスタクレス氏の左眼を切ったのは父上よ」
──「西の帝国を滅ぼしたのは父上だけじゃないけど、アスタクレス氏が直接戦った父上を恨んでいても不思議じゃないと思う」
(も、もしかして、旦那様の妻である私がここに入院してると知って、復讐しに来たんじゃ……!?)
恨みのある本人に復讐したくとも叶わない場合、その家族へ刃が向くことなど往々にしてあることだ。
そして、時には本人よりも家族を害した方が復讐効果が高いことだってある。
(隠れているべきかもしれないけど、アスタクレスさんが別のだれかを間違えて襲っちゃうこともあるかもしれないわよね……)
そんなことになったら被害者に申し訳ない。
恐る恐る、妻はアスタクレスへ声を掛けることにした。
「あのぅ、アスタクレスさんですか?」
「……はい? 申し訳ありません。今はプライベート中でして、サインには応じられないのです」
後ろから声を掛けると、意外にも優しげな声で謝られてしまった。どうもこちらをファンだと思ったようだ。
「いえいえ! 私はサインを求めに来たわけではないんです!」
「握手でしょうか……?」
「あの、私、『宗国の猟犬』の妻です……!」
仇の妻だと名乗ると、アスタクレスは一瞬唇を引き結んだ。
「ご婦人、何の御用でしょうか?」
「アスタクレスさんの方こそ、私にご用件があったのでは?」
「いえ、特には……」
(復讐に来たわけではない?)
アスタクレスの戸惑った顔を見るに、嘘を言ってるようには見えない。
「少し、お時間を頂けますか?」
「……はい」
彼の妻の申し出にアスタクレスは小さく頷いた。
◆
中庭のベンチに二人は腰掛けようとしたのだが。
アスタクレスは胸ポケットからハンカチを取り出すと、サッとベンチへ敷いた。
「どうぞ、ご婦人」
「ありがとうございます」
(紳士だわ……)
元帝国の騎士だからか、話し方も所作も実にきちんとしている。片目は黒い眼帯で隠れていて、見た目は厳ついが、口調が柔らかいので恐ろしい印象がだんだん薄れていく。
妻がどう話を切り出そうか迷っていると、最初に話を振ったのはアスタクレスの方だった。
「……その腕、どうされたのですか?」
「あ、ああ、子どもをお風呂に入れていたのですけど、こちらが油断している隙に勝手に出ていっちゃったんです。急いでタオルを持って追っかけていったら……その、床が濡れていて転んでしまったんです」
(あっ……しまった)
つい家庭の話をしてしまった。十六年前に終結した宗西戦争後、アスタクレスは捕虜になっていた。独身の可能性が高い。そんな彼に、仇である「宗国の猟犬」に温かな家庭があると思われたら非常にマズいのではないか。
「しゅ、主人とは不仲なんですけど!」
咄嗟に夫とは不仲と言って誤魔化した。
「子どもの世話も私一人でしていて……」
「それは大変だ。ご婦人はここに入院しているのですか?」
「はい……」
「私もです。雇い主から違法な薬物を打たれていまして……。薬を抜くためにしばらく入院することになりました」
「まあ、大変ですね」
(旦那様も昔、ドーピング剤を使っていて、後遺症に苦しんでいたことがあったわね……)
アスタクレスに妙な親近感を持ったが、言わない方がいいだろう。
「ところでお話しというのは?」
「あの……」
妻が口を開こうとした、その時だった。
植木があるはずの背面から、ガササッと大きな音がした。驚いた妻は後ろを振り返る。
「あっ……!」
「……不仲とはどういうことだ」
そこには頭や肩に葉っぱをたくさん付けた、夫がいた。一切の感情が消え失せた、そんな顔をしている。
(王城にいるんじゃなかったの……!?)
まさかこんな時間帯に軍病院に来るとは思わなかった。というか、いつからここにいたのか。
夫は不機嫌そうに、ふんと鼻を鳴らす。
「ふん、夫を仇としている男と白昼堂々不貞など、関心せんな」
「不貞なんかしてませんよ……。アスタクレスさんとは、ちょっとお話ししてただけです」
夫は浮気一つしない真面目な人だが、少々、いやかなり束縛するところがある。端的に言って嫉妬深いのだ。
「……男女が二人きりで話していたら不貞だ」
「それは誤解です。私はこちらのご婦人に話しかけられただけで」
「黙れ、間男!! ……三枚に下ろされたいのか?」
夫はアスタクレスの発言を一蹴する。
軍病院の中庭は、無駄に重たい空気に包まれた。
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