第36話 情報過多

 部屋に一人残された、彼の妻は苦しんでいた。


 (うっううっっ……あんなところで転んでしまうなんて……!)


 ドジにも程がある。

 今日はたまたま夫の部屋にいて、さらに夫が外出先から割とすぐに帰ってきてくれたから助かったものの、ここがいつも暮らしている母子寮だったら……と思うとゾッとする。

 今頃、素っ裸のエミリオと二人、途方に暮れていたかもしれない。


 (旦那様で一儲けしようと思ったから、バチが当たったのかもしれない……)


 当然、応援する気持ちがあって、夫が勝つ方の賭け券を買った。だが、配当金を何に使おうかなとわくわく考えていたのも事実。

 ちなみに妻が欲しいと思っていたものは、異国の知育玩具と娘達の服や小物だ。あと、夫のコートも二、三着仕立てたいと考えていた。


「はぁ……」


 ズキズキと痛む肩を抑える。脱臼か、打ち身か、それとも両方か。今日はもう夜遅い。病院は明日にでも……と思ったが、このままでは痛くて眠れそうにない。一晩中呻くはめになりそうだ。

 瞼を閉じてじっと痛みに耐えていると、錠が外される音がした。



「大丈夫か?」


 夫が戻ってきた。

 妻は瞼をカッと開ける。


「旦那様! エミリオは……」

「騎士団の託児所に預けてきた。エミリオは楽しそうにしていたぞ。あの子は人見知りしないからな」


 夫が戻ってきただけで、肩や腕の痛みがほんの少し楽になった。胸に広がる安心感で、つい笑ってしまいそうになる。


「今から病院へ行こう」

「申し訳ありません、戻られたばかりなのに」

「玄関廊下の滑り止めをしていなかった俺が悪い。気にするな」


 眉を下げて申し訳なさそうにする夫に、胸がキュンする。今日は家族サービスで疲れているだろうに、こちらのドジを責めず、自分のせいだと言う夫は人間が出来過ぎている。顔だけじゃなく内面も男前な夫最高過ぎる。


「立ち上がれそうか?」


 夫の腕が肩に回される。ふわりと石鹸の良い匂いがした。


 (もっ、もしかして、このままお姫様抱っこで運ばれるのでは!?)


 一気に乙女モードになってしまった妻は、お花畑全開の妄想をしてしまう。


 だが、現実は甘くなかった。



 ガラガラ……ガラガラ……ガタンッ……ガラガラ……


 妻は四方に壁がある台車に乗せられていた。彼女は中で三角座りをしている。その目に光はない。


「大丈夫か? 肩に響いていないか?」

「だっ、大丈夫です〜〜」


 頭上から夫の声が聞こえ、妻はびくりと肩を震わせると慌てて返事をする。台車は夫が押していた。


 (まさか台車に乗せられるなんて……。ま、まあ、お姫様抱っこだと肩を抱えられるから患部に響くのは分かるのだけど……)


「もうすぐ病院へ着くぞ」


 (ムードがない……)


 ムードだなんだと言ってる場合ではないのは分かっている。悪いのはドジをやってしまった自分だ。だが、妻はほんのちょっぴり泣きたくなった。

 台車で運ばれるのは恥ずかしいからだ。



 ◆



「ちょっと待って兄上……! 情報量が多過ぎて頭ん中がごっちゃごちゃになりそう!」


 翌朝、彼は王城内の謁見の間にいた。

 玉座に座る王マルクは、彼からの報告に額に手を当てた。


「エリが地下闘技場に行きたいって言い出して、家族で見に行ったんでしょ? それがどうして兄上の剣闘技会飛び入り参戦からの違法薬物疑惑の捕物劇になるのさ……」

「まあ、色々ありまして」

「もーう、報告書が山程来て大変だよ!」


 紙束を抱えたまま、マルクは仰反る。

 そんなマルクに、彼は追い討ちをかけるような報告をした。


「あ、陛下、うちの妻がゆうべ肩を脱臼しまして。軍病院に入院しているので早引けしてもいいですか?」

「え、姉上が? 何で脱臼したの……?」

「エミリオを風呂に入れていて、出た後に身体を拭こうとしたら逃げられまして。妻はエミリオを追いかけていて転倒しました」

「……近衛部隊副団長と侯爵令嬢の夫婦に起きる家庭内事故とは思えないね」

「まあ家に帰れば、ただの三十代半ばの夫婦と三歳児の親子ですから」

「……まあ、帰っていいよ。お大事に。僕はこれから会議があるから」


 マルクは疲れた顔をしながら、手をひらひらさせる。


「王立騎士団の人事会議ですか……」

「そ、ブルーノがどうしても特務部隊の団長を辞めたいって言ってるからね。それに団長が地下闘技場の雇われ戦士やってたのもマズいね」

「飛び入り参加した俺は不問ですか?」

「兄上まで降格になんか出来ないよ。ただでさえ実践経験豊富な騎士が少ないってのに。クリスティアン団長は近衛部隊のモチベーター、兄上はガチの戦力枠だよ」


 マルクはぴしりと彼を指差した。


「ブルーノが特務部隊の団長から降格なら、次は誰を団長に推すおつもりで?」

「とりあえずは特務部隊補佐長のナールが当面団長代理をやることになると思う。近衛部隊に来たばかりのムスカリは返せないからね。僕の護衛官が減っちゃう」


 二人が話していると、見慣れた金髪の男がやってきた。近衛部隊団長のクリスティアンだ。


「陛下、会議の準備が整いました」

「んっ、ありがとう。……じゃあ、姉上によろしくね、お大事に」


 王立騎士団の団長の人事は同じく団長職の人間と監査部、そして国王を交えて行われる。

 副団長の彼は参加出来なかった。


 (俺は副団長で良かった……)


 団長は他の部隊の会議にも呼ばれる。聞くだけで面倒なポジションだ。

 彼は短く息を吐くと踵を返す。その足で妻がいる軍病院へ向かった。

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