第35話 無駄足と注意不足
彼とムスカリは地下闘技場へ辿り着く。
地下闘技場の入り口周辺には、揃いの灰色の制服を着た騎士や騎士団関係者がたむろしていた。
腕に腕章を付けているのは、監査部の者だろう。
彼とムスカリが中へ入っていくと、袖に四本の線が入った制服を着た男がふいに振り返る。
「副団長!」
「ウエンスか?」
「ああ、久しぶりだな」
眼鏡をかけた銀髪の男が、にこやかな顔をして近づいてくる。
それを見たムスカリは、小声で彼に尋ねた。
「……副団長殿、監査部の団長殿と親しいのですか?」
「士官学校時代の同級生だ。昔から何かと世話になっている」
ウエンスは王立騎士団監査部一筋二十年の大ベテラン。監査部は主に騎士団内の風紀を取り締まっているが、王城敷地内の施設で不正が行われていないか、調査する部門でもある。ウエンスはその監査部の
「さっそくだが、報告しても良いだろうか?」
ウエンスは腕に抱えた紙束に視線を落としながら、メガネのつるを掴む。
「ああ」
「まずはアスタクレスのことだ」
「もう何か分かったのか?」
「……いいや、アスタクレスには検査のため、軍病院に入院して貰っている。試合中にドーピング剤のようなものを打たれていたと、リーリエ君から報告を受けていてな」
「ああ、薬を打たれたアスタクレスは短時間で全身の筋肉を増大させていた……。意味のある言葉が話せなくなるぐらい、強い効果のある薬だ」
(あの手の薬にはろくな思い出がないな)
彼も十六年前の西の帝国との戦争──宗西戦争時にドーピング剤を使ったことがある。丸五日、寝ずに動けると謳われた強力な体力増強剤で、実際に前評判通りの効果があった。その名も「戦神の薬」。
しかし効果の強い薬ほど副作用はつきもので、彼は十六年前に味覚の一部を失ってしまっている。
今でも食事を楽しむことは難しく、騎士とは思えないほど少食だった。
「……ふむ、話を聞くだけでも合法の薬物とは思えないな。ウラジミルがどうやって入手したのか、気になるところだ」
「ウラジミルは地下闘技場の戦士を集めるために、各地を回っていたようだ。その時に手に入れたのかもな」
「ウラジミルも取り調べ中だ」
(ブルーノは「試合中に筋肉注射を打つ戦士なんて初めてみたぞ」と言っていた。最近手に入れたものかもしれないな……)
これから複数の選手に使うつもりだったのかもしれないと思うとぞっとする。
アスタクレスのことを思うと、なるべく副作用など後遺症が少ないと良いと願うばかりだ。
「ここは監査部で調査を行う。何か分かり次第伝えるから、帰ってもいいぞ?」
「ああ、悪いな。ムスカリ、戻ろう」
「はっ」
地下闘技場へ戻ったが、アスタクレスの姿はすでになく、やることも特に無かった。
(俺が地下闘技大会に出ていたことを、てっきりウエンスに咎められると思っていたが)
ウエンスは彼が闘技大会に出たことを「地下闘技場の調査のためだろう」と都合良く解釈してくれたのかもしれない。
「悪かったな、ムスカリ。無駄足に付き合わせてしまって」
「無駄足ではありませんよ。副団長殿と監査部のウエンス殿の仲が良いと、知ることが出来ましたから」
「? そうか……?」
(別にウエンスと特別仲がいいわけでもないが……)
彼は特に訂正しなかった。ムスカリのような人望のある人間は、上官の人間関係が気になるものなのだろう。
◆
彼はムスカリと分かれると、そのまま妻子が待つ寮の部屋へと戻った。
今夜は特別だった。「たまには親子水入らずで過ごすのもいいんじゃない?」と王マルクが、妻子が騎士団の寮の部屋に泊まることを許してくれたのだ。
錠を外して扉を開けると、誰かがはしゃいでいるような、賑やかな声が聞こえてくる。
(エミリオが起きたのか?)
彼がそう思った時だった。脱衣所がある廊下の影から、何も身につけていないエミリオがひょっこり現れたのだ。
「おとうしゃ!」
エミリオは深緑色の瞳を輝かせると、たどたどしく父親を呼ぶ。そして、たたっと走り寄ってきた。廊下には小さな足跡が点々とついている。
どうやらエミリオは風呂に入っていたらしい。癖の強い髪はぐっしょり濡れており、むちむちした短い腕もぽっこりしたお腹も薄紅色に色づいている。
抱き上げると、ほかほか温かい。
「エミリオ、お母さんは?」
「まって、エミリオ!!」
今度は袖まくりをした妻が現れた。手には大きなタオルを持っている。風呂あがりのエミリオの身体を拭いてやろうとして、逃げられてしまったのだろう。必死と言わんばかりの形相をしている。
よくある光景だと微笑ましく思っていると、妻はなんと濡れた廊下につるんと足を滑らせてしまった。
「あっ……!」
タオルを持ったまま、妻は前へずでんと音を立てて転んだ。
「お、おい、大丈夫か?」
タオルを両手で掴んでいたせいだろう。妻は腕を巻き込むような転び方をした。
呻き声を漏らしながら床に転がり、腕を押さえている。
「うぅぅ……」
「平気ではなさそうだな。少し待っていろ」
「さ、先にエミリオの着替えを……」
「分かっている。……エミリオ、お着替えしような」
エミリオを抱き抱えたまま脱衣所まで行くと、籠の中には小さな服が畳まれた状態で置かれていた。
新しいタオルを出し、エミリオの頭と身体をしっかり拭いてやってから、肌着を着せてやる。
「……エミリオ、お着替えしたら託児所へ行こうな」
「せんせい、あえる?」
「ああ」
(ひとまずはエミリオを騎士団の託児所へ預けに行こう)
騎士団には二十四時間子どもを預けられる託児所がある。騎士団には父子家庭の者も多く、子どもを一人で育てながら働く父親は珍しくなかった。
夏場とはいえ、夜間は冷える。彼は上にもう一枚エミリオに着させた。
「エミリオを騎士団の託児所へ預けてくる。戻ったら病院へ行こう。頭はぶつけていないか?」
彼は廊下で蹲る妻に声をかける。妻は肩に手をやりながら、額から汗を流している。顔色は真っ青だ。相当、痛みが酷いのだろう。
「ぶつけたのは肩だけです。申し訳ありません……」
「こちらこそ、玄関側の廊下の滑り止めを怠っていた。申し訳ないな」
脱衣所やその周辺の廊下にはすべって転んでしまわないよう、薄手の絨毯を敷いていたが、玄関側の廊下には何もしていなかった。
(エミリオはやっと三歳になるところだ。走っていってしまう可能性なんか、全然あるのに。俺の注意不足だ)
「さあ、エミリオ。行こうか」
「うん!!」
エミリオは父親との夜間の外出が嬉しいのか上機嫌だ。彼は負傷した妻一人を家に置いていく心配を抱えながらも、部屋の扉を閉めた。
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