第33話 センチメンタル
『いや〜〜非常に見応えのある試合でしたね! 実況の私も思わず見入ってしまいました!』
しばらくろくに実況していなかった「実況係」。てっきり地下闘技場のスター戦士であるアスタクレスの劣勢を伝えないためかと思いきや、個人的な理由で黙っていたらしい。
『百獣王アスタクレスを破ったのは、「宗国の猟犬」! 勝利、おめでとうございます!』
◆
「パパ! ……うわっ、ドロドロじゃん!」
彼の姿を見たエリはぎょっとする。
「まあ! いつも全力でカッコつけているお父様が全身砂まみれに!」
ターニャも口に手を当てながら、「まあ!」と声をあげる。
「お怪我はありませんか? 父上」
「……ありがとう、平気だ」
そして、最近態度が多少軟化したテレジアが、タオルを貸してくれた。
あれから彼は家族の元へ戻った。
ブルーノに呼びにいかせた部下のムスカリに、後のことをすべて任せたのだ。
エミリオの相手をさせてしまったリーリエも、今はムスカリと一緒にいるはずだ。ムスカリとリーリエには代休を多めに与えなくてはと、彼は勤務表を頭に描く。つい、仕事が出来る部下に色々頼みがちになってしまう。
(……ムスカリは地下闘技場の事情を知ってそうだったな)
最近、特務部隊から近衛部隊へと移ってきたムスカリは、元は特務部隊の伍長をやっていた。ムスカリは主に王都や王城敷地内に不穏な動きがないか調査していたらしく、地下闘技場のことも調べていた。
(アスタクレスが打たれていた薬……)
あれほどの短時間で筋力を増大させる薬が合法であるはずがない。それに、アスタクレスは鉱山で働かされていたところをウラジミルに見出されたと言っていた。
地下闘技場が演出だけではなく、本当にアンダーグラウンドな環境である可能性は高いだろう。
「旦那様、お疲れ様でした」
考え事に耽る彼に、彼の妻が声を掛ける。
「長い時間、席を外して悪かった」
「いいんですよ。皆も旦那様の試合を見れてとても喜んでいましたし」
家族サービス中に亭主が長い時間いなくなったら怒りそうなものだが、彼の妻は上機嫌だ。
妻の後ろから、エリはひょっこり顔を出す。
「ママね、パパが勝つ方に賭け券買ったんだよ。しかも、箱買い! めっちゃ儲けた!」
「なるほどな」
「ちょっと、エリ!」
エリはうんと腕を広げる。それを見た彼の妻は慌てた。
「配当金は染め物工場の改修に使う予定です!」
「まあ君が儲けた金なのだから、使い方をとやかく言うつもりはないが……」
必死で言い訳する妻に、彼は苦笑いを漏らした。
◆
ざざざーっと水が落ちる音がタイル地の空間に響く。
彼は頭からシャワーを浴びていた。
(水を浴びても浴びても砂が出てくる……)
タイルの壁に両手をつき、床に流れ落ちた砂を見てぞっとする。足の裏がざらざらした。
ここは騎士団の寮の部屋にあるシャワールーム、自室だ。出来れば自室ではなく、詰所のシャワーを借りたかったが、今日は一応休みを取っている。
私服姿の砂まみれの状態で詰所に寄れば、掃除係のパートタイム勤務の女性達から白い目で見られるのは必至だろう。出来れば女性を敵に回したくない。
バスローブを着てシャワールームから出ると、ちょうど妻が炊事場で紅茶を淹れているところだった。ポットからは湯気が漏れている。
「大変でしたねえ」
「ああ、なかなか砂を洗い流せなかったぞ……」
頭から被っていたタオルを取り、短い黒髪を一房摘む。砂が残っていないか、指の感触で確かめる。
三人娘は学校の寮の門限があるのでそのまま帰り、染め物工場で働く男達もぺこぺこと腰を折りながら去っていった。
今この部屋にいるのは、彼とその妻と息子の三人だけだ。
そして、はしゃぎ疲れてしまった息子のエミリオは、リビングにあるヌックで眠っている。
(思えば、こんな時間は久しぶりだな)
妻の実家で暮らしていた頃は、息子が寝ている間に夫婦だけで紅茶を飲むことがよくあった。互いに最近あったことなどを報告し合うのだ。
妻は義父と共に侯爵領の運営を行ない、彼は侯爵領の警護をしていた。彼は領地に点在している村々を回り、賊の気配があれば討伐へ出かけていた。
各々が侯爵領のために働き、あれはあれで上手く回っていたように思う。
そしていつかは自分が侯爵家を継ぎ、妻と二人で侯爵領を切り盛りしていくのだと彼は考えていた。
(……やれやれ、奥さんと二人きりでいると、つい感傷的になってしまうな)
夫婦二人三脚で支え合いながら、領地運営が出来たら幸せだろうと考えていた時期もあった。
しかし、次期侯爵の座は長女のテレジアへ。自分は王に呼ばれ、王の側近である護衛官になった。今はまだ近衛部隊の副団長でそれなりに自由に動ける立場にはあるが、団長に昇進したらますます妻の実家とは距離が出来てしまうだろう。
「地下闘技場で買ったクッキー、美味しいですよ。どうぞ召し上がってください」
「ああ、ありがとう」
妻に勧められたクッキーを丸いカゴから一枚取り、口へ運ぶ。何だかまだ、口の中が砂の味がするような気がした。
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