第31話 パワーアップ


「タイム!!」


 ウラジミルは胸の前でバツを作ると、審判は慌てて試合を止める合図を出した。

 このウラジミルの行動に、観客席の一部からはブーイングが飛んだ。


「おい! もう宗国の猟犬の勝ちでいいだろ!」

「アスタクレスがぜんぜん歯が立たないじゃないか!」


 ブーイングを飛ばしているのは、「宗国の猟犬」こと、彼の勝利に賭けた者達だろう。


 彼はふうと息をつく。


 (かなり見せ場は作った。そろそろ試合を終わらせても良い頃合いだろう……)


 服を見ると、すっかり汗と砂でどろどろに汚れていた。彼はプライベートであってもいつ曲者に襲われても対処出来るよう、柔軟性のある生地を使った動きやすい格好をしているが、やはり騎士服と比べると防汚性は劣る。


 アスタクレスがよろよろとした足取りで待機場へ行くのを見、彼も自分用の待機場へ向かう。

 そこには木のカップを持ったブルーノがいた。


「おいっ! 水持ってきたぞ!」

「ブルーノ……」


 彼はブルーノから木のカップを受け取ると、中の水を口に含み、ゆすいだ。砂地のリング上を駆け回ったせいか、砂埃がなかなか落ち着かず、アスタクレスを挑発した際に口に砂が入ってしまっていた。

 ブッとその場で、水を吐き出す。


「あんた……、凄い人だったんだな」

「……は?」


 ブルーノらしくない言葉に、彼はぎょっとする。

 口をゆすぐ彼を見るブルーノの目は……心なしか輝いて見えた。


「あのアスタクレスが、あんた相手だと手も足も出ねえ! あんたがこんなにも強いとは思わなかったぜ。それに剣技も凄かった! あんなの見たことねえ!」


 (いつもコイツにやっている闇討ちの方が、遥かに難易度が高い技なんだが……)


 何やら興奮しているブルーノに彼はげんなりした。

 凄い凄いと騒ぐブルーノだったが、あらかた騒ぎ終えたあとは、頭の後ろをぽりぽり掻きながら謝り出した。


「あんたのこと、軟弱者だと言って悪かった……」


 どうもブルーノは直情的なぶん、素直な性格をしているらしく、あっさり自分の非を認めた。


「……いいさ。実際、俺の見た目は強そうじゃない。妻の実家の警護を十二年もしていたと聞いたら、やっかみたくなる人間もいるだろう」


 細いなりに鍛えてはいるが、かっちりとした騎士服を着込んでしまえば文官と大差ない体格をしている。騎士を二十年やってるのに顔にいかめしさはない。お世辞にも強そうには見えないだろう。


 (まあナメられることが多い分、戦いには有利だったがな……)


 勝ちには不思議の勝ちはあるが、負けにはない。そして敗北原因の上位に来るのが、慢心だ。

 相手がこちらが弱いと思い、油断してくれたおかげでアッサリ勝てたことは何度もある。


「この試合、絶対に勝ってくれよ!」

「負けるつもりはないが、向こうは何か秘策を出してきそうだな」


 すっかり味方に寝返ったブルーノに、彼は前方を見るよう促す。

 待機場の椅子に座るアスタクレスの周りには、白衣の人間達がいた。


「……なんだ? あいつら?」

「救護係じゃないのか?」


 アスタクレスは肩に筋肉注射を打っている。痛みどめか、疲労回復の類だろうか。


「試合中に筋肉注射を打つ戦士なんて初めてみたぞ」

「ふむ……」


 ブルーノの焦った声に、彼は顎に手を当てる。


 (違法なドーピング剤を打っているのかもしれないな……)


 何せ、筋肉注射を打っているアスタクレスを見つめる、ウラジミルの口元が歪んでいた。

 これは何かあると見て間違いないだろう。


「ブルーノ。今から王城へ行って、ムスカリを呼んできてくれないか?」

「はぁ? 俺がか? あんたの試合の後、十連勝の表彰式があるんだぞ?」

「俺がアスタクレスとの試合を変わってやったんだぞ?」

「ううむ……仕方ないな!」


 ブルーノは戸惑いながらも、駆けていく。

 その背を見つめながら、彼は思う。


 (戦化粧を落とせと言えば良かっただろうか……)


 ブルーノの戦化粧はよっぽど水や皮脂に強い染料なのか、羽を広げたコウモリを模した化粧は今でも落ちていなかった。


「まあ、いいか……」


 ◆


 休憩時間終了を告げる鐘が鳴る。

 彼はまたアスタクレスと向かい合うと、剣を構えた。


 (アスタクレスの様子がおかしい……?)


 明らかに先ほどと比べ、腕が太くなっている。パンッと筋肉が張り、びっしりと血管が浮き出ていた。

 おそらく全身同じ現象が起きているのだろう、鎧がかなりキツそうに見える。


 (ムスカリに調べさせたほうが良さそうだ)


 部下のムスカリにはあらかじめ、今日地下闘技場へ行くことは告げてある。目的は家族サービスだと伝えた。

 家族サービス中の上官から呼び出されたら、大変なことが起きたとムスカリなら察してくれるだろう。


『試合、再開!!』


 実況の声が響く。


「う、う、ぁ……」

「アスタクレス?」


 短時間で大きくパンプアップしたアスタクレスは、言葉にならない声を漏らしながら、淡い黄金色に輝く剣を頭上まで掲げると、それを一気に振り下ろした。


 ドゴォッッ!


 アスタクレスが剣を振り下ろしたところから、まるで火山の噴火のように砂が噴き出す。

 彼は大きく後ろへ飛び、アスタクレスの攻撃を避けた。


 (これは……?)


 アスタクレスは明らかに、何らかのドーピング剤を打たれていた。パワーは増大しているが、自我は失っているらしく、何も喋らない。


「いいぞっ、いいぞ! アスタクレス! 宗国の猟犬をやっつけろ!!」


 観客席の最前列では、またもウラジミルが拳を突き上げている。

 

 (何ということを。喋れなくなるほどの強い薬を打ったのか? ……さっさと試合を終わらせて、アスタクレスを軍医に診せなくては)


 彼は剣の柄を握り締めたまま、大きく飛び上がった。

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