第2話 妻の実家を継げない婿


 時は少し遡る。

 ここに妻の実家を継げない婿の男がいた。

 妻の実家を継げない彼は、三十代半ばになった今でも王立騎士団近衛部隊に所属している。


 彼は二十一歳の時に侯爵家の一人娘である妻と結婚した。

 その新婚当初から、「自分は侯爵になれないのでは?」と半分覚悟していたが、実際に義父から「次期侯爵の座は、孫娘のテレジアに譲る」と言われたその衝撃は大きいものだった。


 さらに追い討ちをかけるように、彼のことを何かと気にかけていた先王が崩御したのだ。


 (俺はこれからどうなるのだろうか……)


 次期侯爵の座は長女へ。自分を何かと重用してくれていた主君は亡くなってしまった。

 主君の葬式や法要の類が一通り終わり、慌しかった日々が落ち着くと、急に不安に駆られるようになった。主君が亡くなって、もう一年になる。

 彼は額に手を当てて、瞼を固く瞑る。将来を思うと眩暈めまいがした。


 王立騎士団はある程度の地位にいないと、四十歳で強制的に退役させられる。彼は我が子の世話をするため、計五年間もの育児休業を取っていた。

 戦があれば出征していたものの、休んでいた分出世は遅れており、このままではあと数年で退役させられてしまう。


 先王は「誰が何と言おうと、お前はこの国の功労者だ。いつまででも王立騎士団にいておくれ」と言ってくれていたが、先王亡き今、その約束も無効だろう。


 (無職の父親では子どもの進学に差し障る……)


 彼は五年も育児休業を取るぐらい子煩悩だった。教育に関しても色々考えており、出来れば子どもの進学の際に問題とならない程度の社会的地位は得ていたいと思っている。

 そんな、執務机の上で頭を抱えている彼に、近寄る影があった。


「旦那様」


 自分に優しく話しかける声に、彼は瞼を開ける。


「……どうした?」

「王城から書状が届きましたよ」


 彼の妻だった。その手には、一目で上質な紙が使われていると分かる封筒があった。

 彼は手を伸ばすと、妻からそれを受け取った。


「ありがとう」


 彼の妻は彼の二つ歳下で、栗毛の巻き髪と空色の大きな瞳、それにむっちりとした身体付きが印象的な可愛らしい女性だった。童顔な妻は背が低く、少々ぽっちゃりしていることもあり、実年齢よりもずっと若く見えた。


「あっ、席を外した方がいいですよね!」


 封筒を開けようとする彼に、妻は慌てた様子でそう言った。


「別にかまわない」

「でも、マル……いえ、陛下の刻印が押されていますよ?」


 妻は眉尻を下げると、封筒を指差した。確かに、封蝋にはマルク新王の印があった。彼は片眉を吊り上げる。


「なおさら一緒に中身を見たほうがいいだろう」


 (先週、陛下とお会いしたばかりなのに)


 一体何だろうかと首を傾げる。彼はつい四日前、新たな主君と顔を合わせていた。特に改まった場ではなく、王城内の廊下ですれ違っただけだが、その時は何か特別なことは言われていなかったはずだと記憶を手繰り寄せる。


 封蝋をはずし、封筒の中身を抜き取る。ぱらりと厚手の紙を開くと、そこには辞令が書かれていた。

 彼は無言で文書に視線を走らせる。

 ふと視線を上にやると、不安そうにこちらを見つめる妻と目が合った。


「ど、どうでした……? あ、言えないことだったら別にいいんですけど!」

「別に言えないことじゃない。ただの登城命令だ」

「登城命令……? もしかして、これから王城勤務になるんですか?」


 妻はふわふわした見た目とは裏腹に、いやに察しが良かった。


「先王が亡くなり、これからマルク新王の体制が始まる。……陛下は俺を護衛官に任命された。それも、近衛部隊副団長の肩書き付きでだ」

「まあ! それはすごいですね!」


 妻の大きな瞳が輝くのを見ると、彼は視線を外した。


 (これで王立騎士団に残れる可能性は上がったが……)


 近衛部隊副団長の座に就けば、四十を過ぎても王立騎士団に残れる可能性は高くなる。しかし、王の護衛官を務める以上、妻の実家から王城へ通うわけにはいかないだろう。

 妻の実家から王城までは、単騎で半日の距離がある。

 王の護衛官には、有事の際、すぐに駆けつけられる場所で寝起きすることが求められる。


「ここを出ていくことになる」


 十二年間暮らした妻の実家。今でこそ子沢山だが、子どもがなかなか授からなかったり、侯爵家を継ぐことが出来ず肩身の狭い思いもしたが、いざ離れるとなると寂しさを感じる。


 妻やまだ三歳にもなっていない末っ子長男と離れるのは辛いが、王命には逆らえない。

 王城敷地内に暮らせるのは王族か王城勤務者、それに王城敷地内に建っている学校の生徒のみ。基本的に家族との同居は許されていない。

 今後はもう、妻や長男とは暮らせない。


 彼が瞼を閉じていると、妻の元気な声が飛んできた。


「私達も王都へ移住出来るよう、準備しますね!」

「はっ?」


 思いがけない言葉に瞼を開くと、妻は握った拳を突き上げていた。


「一緒には暮らせなくても、近居暮らしは出来ると思うんです! 私も、エミリオを連れてここを出ます」

「無理をしなくてもいい。それに義父上ちちうえが許さないだろう」


 妻の父親である侯爵は、彼のことをよく思っていない。娘と孫息子の王都移住を許すとは思えなかった。


「許す・許さないの問題ではありませんよ。夫婦は近くにいるべきですわ」


 彼の言葉に、妻は頬を膨らませる。


「それに三女のターニャも兵学校へ入りましたし、テレジア(長女)もエカテリーナ(次女)もお年頃でしょう? 母親が近くにいたほうが安心だと思うのです」

「なるほど、一理あるな。だが、無理はするなよ」


 末っ子長男はあと四ヶ月で三歳になる。自我が出てくる時期で、こちらの要求を嫌がることも増えてくる。世間一般的には育てにくい年頃だ。


 妻は侯爵家の歴とした令嬢だが、新婚当時は彼と王都暮らしをしていたので、生活能力は高い。一通り家事も出来る。だが幼児を連れての王都暮らしは、大人二人暮らしとは比べ物にならないほど難易度が跳ね上がる。


「どこに暮らすんだ?」

「王都のお屋敷はどこも家賃が高いですから、母子寮で暮らそうかと」

「母子寮か……」


 母子寮なら、母と子の世帯しかいないので暮らしやすいかもしれない。だが、使用人を連れていくことは出来ないだろう。屋敷にいれば大人と接する機会があるが、子どもと二人暮らしだときっと妻は煮詰まってしまう。


「最低でも週に一度はエミリオを預けに来い。これが王都移住の条件だ」


 たまには妻に一人の時間を与えないときっと爆発する。彼は妻に、週に一度は自分に息子を預けるよう提案した。


「えっ、いいのですか?」

「たまには父子水いらずで過ごしたいからな」

「あら、エミリオが聞いたら喜びますね!」


 妻は明るい声を出して笑う。妻は常に笑顔を忘れない人で、彼女の快活さにどれだけ救われてきたか分からない。


 この夫婦は幼馴染だった。父親同士が士官学校時代からの友人で、その縁で出会った。

 二人が出会った時、彼はまだ七歳、妻は五歳だった。彼は兵学校の夏期休暇中で、南方地方にある剣術道場へ修行に出されていたが、修行日程の途中で体調を崩し、南方地方にほど近いところにあった妻の実家に預けられたのだ。


「ターニャももう兵学校の一年生だなんて。はじめて旦那様にお会いした時のことを思い出しますね」

「君、去年もその前もそう言っていただろう」


 その後は、思い出話に花が咲いた。

 子どもがまだ小さいのに別居しなくてはいけない。そんな厳しい状況でも気丈に振る舞う妻に、彼は自分もしっかりしなくてはと気を引き締めた。


 ◆


 次の日、夫婦は厩舎の前にいた。

 まだ朝日が昇る前なので薄暗く、肌寒い。

 妻は肩に巻いたストールを手繰り寄せながら、馬上にいる彼を見上げる。


「なるべく早くそちらへ行けるようにしますね」

「エミリオもまだ小さいんだ。急がなくてもいいぞ」

「旦那様の綺麗なお顔を拝めない生活なんて、耐えられないですよ!」

「……そうか」


 急がなくてもいいと言うと、妻は小さな口を尖らせた。

 こういう別れの場で、こちらが嬉しくなるような冗談を咄嗟に言える妻はすごいと彼は思う。


「また王都に行く日が決まったら、連絡をくれ」

「はい。旦那様、お気をつけて」


 こうして彼は、十二年間暮らした妻の実家を後にした。

 なお別れ際、彼の妻が言った言葉は本気ガチだった。


「うっ、ううっっ、旦那様がいらっしゃらない生活なんてありえない……! まるでクリームと蜂蜜がのっていないスコーンのようだわ……!」


 妻は頬に手をやると、頭をふるふると左右に振る。すると、あたりに地鳴りのような音が響いた。妻は自分の腹部に視線を落とす。


「あらやだ、お腹が……。そうだわ、朝食はクリームと蜂蜜をたっぷりのせたスコーンにしましょう!」


 ぽんと手を打つと、妻は屋敷へ向かって歩いていく。スコーンにはクロテッドクリームが定番なのだが、彼女は日々色々な食べ方を模索している。

 妻はまるころっとした体型に見合う甘党であった。

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