3
ぱら、ぱらとページをめくる音が響く。
沈黙が耳に痛い。
「これ、ひどいね」
ようやく口を開いたかと思うと、立花はそう言った。
「読者を気にしすぎててさ、君の良さがなくなっちゃってる。これはこれでいいとは思うけど、もう少し君らしいほうが僕好みだね」
立花は眼鏡を外し、ふうと息を吐く。
立花には夏コンに応募する作品を読んでもらっていたのだ。
「難しいね、小説書くのって」
「書くのは簡単さ。難しいのは読まれる小説を書くこと」
それも難しそうだ。
私も、はあとため息をつく。
「立花ってさ、意外と私のこと好きだよね」
「別に。君以外とはそりが合わないだけだ」
立花は椅子にもたれかかり、呟く。
「もっとも、文芸創作から離れると君とも気が合わない」
なんだか腹が立って「私もだよ」と言い返すと、「君に言われるとは心外だね」と返ってくる。
「それ、どういう意味?」
お互いがお互いのことをじっとにらむ。
「ご注文をお伺いします」
店員がやってきたので、一時休戦。
私はスパークリングレモネード、もといレモンスカッシュを、立花はいつも通りアイスコーヒーを注文した。
「……立花のは?」
無言で原稿用紙の束を投げ渡される。
立花のほうを見ると、素知らぬ顔で私の原稿を読んでいる。
いいだろう。そっちがその気なら、こっちもその気になるだけだ。
表紙をめくり、そこからぱらぱらとページをめくっていく。
相変わらず文章が上手い。比喩などで着飾った文章と、シンプルに読ませる文章との両立が成されている。それらの使い分けも巧妙だ。
描写も一つ一つに意味がある。
言葉が重なり合って、交響曲のような響きを生んでいる。
なにより構成が素晴らしい。あっと驚くような展開でありながら、積み重ねてきた描写から、そうなるだろうと納得もできる。
心を落ち着かせるために、息を吸って、吐く。
これは良い作品だ。だけど、それを伝えたらあちらの勝ちということになる。作品の優劣ではなく、作者個人の問題として、これを「良い」というわけにもいかない。なによりも、負けを認めることになる。そうなれば、私は今後ずっと立花より下の立場になる。
それは嫌だ。
背中に怖気が走った。
ぶるぶるっと身体が震える。
「寒い?」
「あ、いや……別に」
立花は「そんなに震えてるんだから、別にってことはないだろ」と言って、店員を呼びつけ、ブランケットを持ってこさせた。そして、手で合図して、私に手渡させる。
またお互い無言になる。
「ありがとう」を言わせる気もないらしい。
どちらが先に口を開くか。
私が先に開くのは、なんだか負けを認めたようになりそうで嫌だ。
我ながら子供っぽいと、自分でも思う。
そんな思いから黙っていたら、先に立花が口火を切った。
「あのさ」
「何?」
私は何も言わない。言うのはそっちだ。
何でもないように首をかしげて見せる。
「君、これを書くときに何か読んでなかった? 例えば……」
立花が口にした作家の名前と本のタイトルは、執筆時に読んでいたものと同じだった。
思わず目を見開く。
「だと思った。どこか文体が君らしくないなって思ってたんだ」
なんだ、そんなことか。
身構えて損した。気が抜けて、身体がだらりと脱力する。
立花はページを閉じて、まっすぐ私のほうを見る。
「僕以外の誰かに作品を読ませたりするの?」
なんでそんなことを訊くのだろう。
私が首を横に振ると、立花は「だろうね」と呟く。
「君は本当に読んでもらおうと思ってるの。読ませてあげてるみたいに思ってるんじゃないの。なんか上から目線なのが伝わってくるんだよな」
責めるような口調で、矢継ぎ早に続ける。
「受動的じゃダメだ。能動的にならないと。そんなんじゃ、いつまでも良い小説は書けない」
最後のは自分で自分に言い聞かせているようだった。
立花は「それから」と付け加え、「お金」と手を差し出す。
お金。
ああ、そういうことか。
財布を探って、代金がちょうどあるのを確認し、渡す。
店員にブランケットを返したあと、帰り支度を済ませ、会計が終わるのを外で待つ。
私の気持ちとは裏腹に、空は一段と晴れ晴れしている。
日が暮れる直前は、他の時間よりも明るいみたいだ。
ぎらぎらと照りつける陽光が肌を刺す。
くらくらするほど、眩しい。
店を出てきた立花とは、それから一言も口を利かなかった。
結局、別れるときにすら「ありがとう」の一つも言えなかった。
***
――あれ以来、小説が書けなくなった。
課題のレポートやテストの論述問題なんかは普通に書けるのに、小説となるとまるでダメだ。絵を描くなど、創造的な行為全般がダメというわけでもなく、小説だけが書けない。
夏コンには、立花に読んでもらった作品を、何度か推敲したものを応募した。
自信はない。根拠のない自信、とはよく言うけれど、その根拠のない自信がマイナスのほうにばかり向かって、ダメだとばかり思ってしまう。
応募してしまったからもうしょうがないのだが、それでも落ち込むものは落ち込む。
あと少し上手く書けたら。
もう少し別の表現があったんじゃないのか。
そもそも、プロット自体がマズいのかもしれない。
正解もわからず、何も見えないまま、じたばたともがいている。
書こうとして浮かぶのは、立花の顔。
「君は本当に読んでもらおうと思ってるの。読ませてあげてるみたいに思ってるんじゃないの。なんか上から目線なのが伝わってくるんだよな」
読んでもらおう、と思って書いている。
――あなたに読んでもらおうと思って、書いたんだから。
「受動的じゃダメだ。能動的にならないと。そんなんじゃ、いつまでも良い小説は書けない」
――良い小説が書きたいわけじゃない。
コップの中のサイダーを飲み下すと、ごくり、と喉が鳴る。
炭酸の抜けたサイダーは、ただ甘いだけの砂糖水だ。
スパークリングレモネードが飲みたい。
あの甘酸っぱさと、電撃のような刺激が、私には必要だ。
けれど、飲んで、何も変わらなかったらどうしよう。
なんだ、ただのレモンスカッシュか、となってしまわないだろうか。
スパークリングレモネードは、スパークリングレモネードだからいいのだ。レモンスカッシュではいけない。
ただのレモンスカッシュは、スパークリングレモネードではない。
自分でも何が言いたいんだかわからないけれど、きっとそうなのだ。
私には、スパークリングレモネードが必要なのだ。
***
夏コンの結果発表の日。
夏休み前の補講期間に、私たち文芸部員は部室に集められた。
そこには、立花の顔もある。
あの日から、立花に言われた言葉が、胸に突き刺さって、抜けない。
いつもは隣に座っているのに、なんだか気まずくて少し離れた席に座った。
前方には、夏コンの審査員がずらりと並んで座っている。
それにしても、冷房の風が直撃する席に座ってしまった。
一部の部員が暑がりのせいで、冷房の温度がかなり低いのだ。その一部の部員、というのがほとんど先輩だから文句を言おうにも言えない。
外ではセミも鳴いているというのに、何故私は室内で凍えているのだろう。
過度に踏み込まない、表面だけの薄っぺらい関係ではない、と思って入部したのに、入ってみたら全然想像とは違っていた。
部内では、ライトノベル系の作品を書く人が圧倒的に多く、純文学系の小説を書く人は少ない。
部のマジョリティであるライトノベル系の作家たちは、純文学系の作家を見下しているのだ。表立ってそう見える、というわけではないが、黙っていても肌で感じられるほど、暗黙の格差、というのはある。
今年の新入生で純文学系を書くのは、私と立花だけだ。
他には、2年の幽霊部員二人と、3年の御山さんという人だけで、あとはみんなライトノベル系の作家だ。
プロでもないのに作家と呼ぶのは少しおかしい気もするが、まあ、いい。
「それでは夏コンの結果発表を始めようかな」
顧問の号令から、受賞者の名前が告げられていく。
――投票賞。
どうせ私は選ばれないに決まっている。
「
ほらね、選ばれない。
――審査員特別賞。
ざわ、とどよめきが広がる。
顧問がもう一度受賞者の名前を読み上げる。
「
それを聞いたとき、耳を疑った。
まさか、そんな。
そんなこと、あるわけがない。
顧問は声を張り上げて繰り返す。
「
あたりを見回す。
立花と目があったが、そらされる。
同級生や先輩の前を「通してください」「ごめんなさい」と言って通してもらい、前に出る。
私ですら受賞できるんだから、立花も受賞しているかもしれない。
その後も受賞者の名前が読み上げられていった。
けれども、立花の名前が呼ばれることはなかった。
それから、簡単な表彰式のような形で表彰状を手渡され、審査員たちの総評と、作品に対する講評を聞いたが、内容は覚えていない。
立花のことばかりが気がかかりだった。
表彰式も終わって、みんなが帰り支度をし始めた。といっても、まだ閉門まで時間はあるので、受賞者同士で喋ったり、受賞を逃した人たちが今後の課題を議論したりしている。
立花はなんだか話しかけてくれないし、かといって他に親しい人もいないし、そういうわけで、私は特に話す人もなくぼーっとしていた。
そのとき、ある2年生二人組の話している内容が漏れ聞こえてしまった。
「梶のあれ、『花火』だっけ。あれは女だから書けたんだろうな。女にしか書けない小説だ」
「きっとあいつは子宮でものを考えてんだ。そうでなきゃ、あんなに強烈な女の臭いがするのは書けない。まあ、あんまり面白い作品でもなかったけど」
蔑まれているのは、いつものことだから別にいいのだ。
話している二人はいつも私のことを馬鹿にするし、批判する。
同じ作家でも、彼らは男で、私は女。
その隔たりは思っていた以上に大きい。
下を向いて、言い返しもせず黙って聞いていた。
そのとき、立花の声がした。
「要は、僕らを使って自慰行為をしてみせたんですよ、あいつは。独りよがりで読者のことなんか微塵も考えちゃいない。そんなの自慰行為の他になんて呼べます?」
2年の二人は物珍しそうに「立花じゃないか」「梶といっしょじゃないのか」と声をかける。
「あいつが読んでくれと頼むから、今まであいつの作品を読んでやっていたんです。だが、まるで成長が見られない。成長しないのは退化する、いいえ、堕落するのと同然です」
「とうとうあいつに愛想を尽かしたか」
拳を強く握りしめて、我慢する。
言い返したら、負けを認めたことになる。
「ええ、あいつにはもう付き合いきれません」
立花の嘲笑が、耳の奥でずっと木霊していた。
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