白昼夢、なめらかな 二

「三冷」

 ガレージのシャッターを開け、希新はじぶんと同じ姓を持つ従兄弟を呼んだ。鼻につく甘ったるい臭いに眉根が寄る。シャッターを開けた時点で来客に気づいていただろうに、従兄弟は呼ばれてようやく肩越しに振り返った。

 元々車の置かれていたガレージは一年前から従兄弟の部屋として使われていた。基本的にここを訪れるものはいない。母は父が勝手に引き取ってきた従兄弟をいないものとして扱っていたし、同じ中学校に通っている従兄弟が希新に話し掛けることは一度もなかった。一応は同じ家に住んでいるというのに、希新は従兄弟のことを他人よりも知らなかった。

 車一台と用具が収まって十分な広さのあるガレージは、ともすれば希新の部屋よりも少しばかり広いかもしれなかった。机と椅子、卓上ライト、それから本棚。ベッドと灰皿。シーツの上に投げ出された黒い煙草の箱と百円ライター。机に向かって予習だか復習だかをしていた従兄弟は、黒い紙巻き煙草を咥えていた。

「それ!」

 希新は床を踏み躙って従兄弟の肩を掴んだ。

「お父さんのせいにしてるって?」

「煙草のことか?」

「当たり前だろ!」

 頭に血が上る。従兄弟は希新の激昂を笑うかのように紫煙を吐き出した。また、甘ったるい臭い。希新は咳き込み、従兄弟から離れた。従兄弟は椅子から立ち上がり、ベッド脇の灰皿に煙草の灰を落とした。壁に掛かった詰襟の制服、それから従兄弟の校則違反の長い髪にも同じ臭いがついて消えないでいる。従兄弟はベッドサイドに座って悠々と脚を組んでみせた。どういう理由でか繃帯が巻かれた首は細く、頼りなくみえる。私服らしい大きすぎるTシャツに穿いている短パンはほとんど隠れて、二次性徴を迎えていない滑らかな脚が露わになっていた。

「おまえが校則違反ばっかりするから、僕まで迷惑してるんだ」

「どうして?」

「先生たちが僕のところまで来るんだよ!」

 何度注意されてもぼうっとした態度で聞き流している従兄弟は、成績ばかりがいいために教師たちも扱いに困っているらしく、しょっちゅう希新のところにまで来るのだ。

「たしかにおまえのお母さんが死んだのは残念だったけど、それと校則違反は関係ないだろ!」

「確かにそうだ」従兄弟は煙草を口に運んだ。

「お父さんまで口実にして、なにがしたいんだよ」

「君の父さんが買ってきてくれるんだ」紫煙に掠れた言葉が乗る。「おれが従順でいい子にしていれば、たいていのものはね」

 希新はぴたりと動きを止めた。父が、なんだって? 従兄弟の言葉を反芻する。希新の父は床屋を経営していて、二年ほど前に亡くなった妹の子を引き取って養育している。たしかに父も愛飲家だが、家では滅多に吸わないし、当然こんな甘ったるい臭いをさせることもない。優しくも厳しい父が、実の息子と同じ歳の子どもに煙草を買い与えるわけがない。

「嘘を吐くな」希新の声は震えた。怒りよって。

 従兄弟は唇の端を吊り上げて、どうやら少し笑ったらしかった。その表情の歪さに、背筋に怖気が走る。

「別に止めたって構わないよ」従兄弟は横髪を耳に掛けた。初めて直視した従兄弟の耳朶を貫く、透明なピアス。「だからさ、君から伯父さんに言ってやってくれよ。おれの顔に精液を掛けないでくれって」

 血の引く音が聞こえた。真っ青になった希新に構わず、従兄弟は暢気に言葉を続ける。

「抱かれると伯父さんの臭いが移るんだよ。煙草臭っていうよりは、体臭かな。それよりは、この匂いのほうがずっといい。君もそう思わないか?」

「おまえ、なにを言ってるんだ?」少年は途切れ途切れにそれだけを言った。

「叔母さんはもう察しているよ。おれが母さんと同じ『仕事』をしているって。おれ、高校を卒業したらこの家を出るんだ。それまでお金を貯めないといけない。ご飯もノートも、買わないといけないし、ね」

「父さんがそんなことするわけない」

「そりゃあ、大事な相手にはしないだろう。強姦なんて」従兄弟は目を細めた。「おれも抵抗をやめたから、不健全性的行為かな。おれがなんの反応もしないでいると伯父さん、つまらないみたいで、これ」

 深爪の指が耳朶を弾く。

「痛かったよ。そっちのほうが、反応がいいみたい」

 考えるよりも先に手が出ることがあるのだと、希新は十三歳にして初めて知った。従兄弟の頬を平手で叩く。手のひらがじんと痺れた。

「血が繋がっているな、君と伯父さん」張り飛ばされたほうを向いたまま、従兄弟はそう言った。「拳よりやさしいから、叔母さんに感謝しないといけないな」

「おまえが、おまえが……」少年は言葉を探した。「おまえが、お父さんを唆したんだろ」

「売女の息子だから学んでしまったってわけだ、男の誘い方を」従兄弟は喉を鳴らした。おそらく、それが少年の初めて聞いた従兄弟の笑い声だった。「でも母さんはおれを男として犯したよ。息子と客の見分けが付かなかったらしくてね。だからさ、伯父さんには感謝しているんだ。こんなおれでも女役をやれるんだって教えてくれたから――おい、吐くのなら外へ行け」

 従兄弟の忠告は一足遅かった。咄嗟に押さえた口から吐瀉物がガレージの床に落ちる。今日の夕食、母お手製のハンバーグだったものが粘性に広がる。従兄弟の舌打ちが聞こえた。消化されかけた肉よりも、従兄弟のほうがずっと汚く思えて仕方がなかった。罵倒の言葉すら思いつかなかった。涙が溢れて視界が滲んだ。

「吐いたくらいで泣くなよ」

 従兄弟はベッドから降りて早々に床を拭き始めた。足許で従兄弟の長い髪が揺れている。

 ふたりの通う中学校の校則では、男子の前髪は目に掛かってはいけないし、後ろ髪は耳を隠してはいけない。だというのに従兄弟の前髪はほとんど目を覆う長さだったし、後ろ髪に至っては結べるほどであった。鴉の濡れた羽のような色の前髪から、丸い瞳が覗いた。髪と同じ色の瞳はただ希新を映しているだけの硝子玉のようであった。

 希新はポケットから鋏を取り出した。従兄弟の前髪を掴む。胃液の臭いが髪に移った。髪を裁断する手応えは奇妙なほど少年を高揚させた。細い髪一つひとつが断たれてゆく感覚。ほとんど根元から前髪を切ってしまうと、もう衝動は止められなかった。

「おまえが、女子みたいな髪型をしているのが悪い!」

「そうかもしれない」

 従兄弟はどうでもよさそうな相槌を打った。その長い髪を引っ掴んで、手当たり次第に断っていく。ものの数分で断髪は終わった。従兄弟の髪は直線的に切り取られ、もはや髪型の体を成してはいなかった。耳の上のところから血が滲んでいるのは、希新の手捌きのせいかもしれなかった。

「床屋の息子だろう。習ってから来い」従兄弟は肩に残る毛束を払い落とした。それから吐瀉物を拭いた布を持ってガレージの外に出る。蛇口を捻る音がした。たぶん、かつて車を洗うために備え付けられていたものだろう。

「掃除の邪魔だよ」

 従兄弟は希新を押し退けて濡れた布で床を何度も拭いた。もしかしたら彼には、少し潔癖なところがあるのかもしれなかった。――いや、他人の部屋で吐いたのだから、当然だろう。

「満足したか?」

 散々に髪を切られた従兄弟は、ようやく立ち上がると希新より低いところから見上げた。そのとき初めて従兄弟の背がみずからよりも低いことを希新は知った。隠す髪のなくなった丸い瞳に、情動らしいものはなかった――怒りや嫌悪さえ。ただ希新の姿が歪んで映り込んでいるばかりであった。同じ人型をしているのに、まるで人間の瞳のように思えなかった。返事を待たずに従兄弟は部屋の隅に掛かっていた紙袋を手に取り、希新の脇を通り過ぎてガレージを出た。

「どこに行くんだ?」

「銭湯」深爪の指が首筋を掻いた。そこにも赤い筋が幾本ある。「毛が貼り付いて痒い」

「煙草、止めなよ。法律違反だろ」

「おれのこと、心配してくれているのか?」従兄弟は肩越しに振り返った。「大丈夫、おれは自殺できない運命だから」

 従兄弟はひらりと手を振ると深い夜の中へと歩いて行った。その大きすぎるTシャツの背を、少年は見えなくなるまで目で追った。

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