白昼夢、なめらかな 一
彼の甘い吐息が青空に細くたなびいていた。
――というのはおそらく
あるいは――夏を誇示するような青空を見上げながら、希新は空想する。彼はきっと希新を呪うために煙草を忘れたふりをして、家に残していったのだ。希新が犯した罪を忘れないように。寝入り端に枕にかすかに染みついた
「兄さん」
妄りな考えに没頭していた希新を、弟の声が引きずり上げた。軽く頭を振って弟を見る。
喪服の似合わない小柄な弟。少年らしさを残す面影。それでいて、夜宵は女を食いものにする商売を生業にしている。――希新も似たような商売をしていたが。
「わざわざ夏に死ぬなんて、最期まで迷惑な人だったねえ」
夜宵は首筋を這う汗を鬱陶しげに拭った。夜宵のそれと希新の首、わずか、同じ位置に擦過傷があるのは、揃いの首輪をしているからだ。常ならば。革製の黒いそれは、希新にとってはみずからを戒め、窒息させるものだったが、弟は女性受けと兄への親愛からそれを身につけていた。
「冬に死んだら死んだで、おまえは迷惑だったと言うだろう」
「そうかも」
「そもそも、そう思うなら来なければよかった」
希新の言う通り、遺族やごく親しいもののみが集まる火葬場には兄弟しかいなかった。警察から掛かってきた電話を取った母は絶叫して受話器を投げ、父はそれを拾わなかった。偶然実家に帰省していなければ、従兄弟は誰にも見送られずに灰になっただろう。あるいはそれこそが彼の望んだことかもしれなかったが。
従兄弟は死んだ――らしい。警察が言うには。
一週間前に水族館だか博物館だかで発生した爆破事件、信憑性に乏しい電子記事によればカルト集団によるテロリズムだったらしいが――ともかく、無差別に誰かを殺すために作られた爆弾は、その誰かに従兄弟を選んだらしかった。
「三冷睦希さんのご遺体の損傷が、もっとも激しいものでした」
受話器から聞こえた声は口調こそ丁寧だったが、そこにはなんの情感も感じられなかった。絶え間なく、人の死を伝え続ける仕事なのだろう。まだ若い女性の、硝子のように透明で綺麗で、そして硬質で平板な声は、却って彼女の告げる言葉に真実味を与えていた。だから希新は知るはずのない従兄弟の死亡現場を、もう三度も夢に見ている。
「五箇所に設置されていた爆弾のうち、四個は解体されていました。生存者の目撃情報から、それを解体したのは三冷睦希さんであったと確認が取れています。なんでも、見事な手捌きだった、とか」
そうだろうな、と希新は胸中で呟いた。従兄弟は今でこそ精神科医として医院を経営していたが、その前は大学病院で外科領域を――特に脳外科を担当していた。脳という繊細で大雑把な、人体のもっとも高いところで人間を人間たらしめる器官にメスを入れるに足るだけの技術を従兄弟は持っていたのだ。普通、脳外科医から精神科医には転向しないだろうが、その大学病院は科を跨いだ研修を推奨していて、脳繋がりで――という話を、希新は聞いたことがあった。ほかの誰でもない、従兄弟自身から。
「最後の一つの爆弾も、解体そのものには成功していました。しかしどうやら仕掛けがあったらしく、運悪くそれが作動して爆発が起きたそうです。その際、睦希さんは咄嗟に爆弾に覆い被さり、結果として近くにいた複数人は火傷や爆風で重傷を負ったものの、命に別状はありませんでした」
運悪く。希新は唇だけでその言葉を繰り返した。それは、まさに従兄弟の人生そのものを集約していた。
だから、「あれ」は従兄弟なのだろう。
希新は火葬炉に運ばれた棺の、そのあまりの小ささを思い返した。死産した赤子でさえもう少し大きな棺を必要とし、その生を望んだ人間の涙の数だけ、花を添えられるだろう。火葬という手順すら、本来は必要ないようなものだった。爆発は従兄弟の身体を肉片に変え、血を蒸発させ、衣類は焼けて襤褸切れ同然だった。捻れて蕩けた骨を拾い集めた鑑識が、それを科捜研だかなんだかに送って、そのDNAからようやく死者の名前がわかった。棺の蓋は閉じられていて、希新はその中にどれほどの分量、従兄弟が入っていたのかすら知らぬ。
従兄弟の両親はとうの昔に他界していて、彼を一時的にでも養育した希新の両親は喪主どころか葬式への出席さえをも拒否した。敬われるべき死者への行いとしては最低のその下を行くはずのそれを、電話越しの女性は責めもせず、戸惑いの欠片すら見せず、ただ言った。
「では自治体で引き取っていただき、無縁仏として供養するということでよろしいですか?」
ちらと、希新の脳裏を掠めるものがあった。同居人――そう、従兄弟には同居人がいたはずだ。舌が一秒、縺れた。受話器越しの無言は、かすかな雜音を孕んでいた。
構いません。そう答えたのは間違いなく希新で、だから形式だけの葬儀に出席する必要なんてどこにもなかった。なのに希新は成人祝いだかの贈りものの三つ揃えに商魂逞しく半額でついてきた喪服を衣装棚の奥から引っ張り出し、太陽がわがもの顔で
従兄弟とその同居人の関係を、希新は聞かされていない。死亡通知が三冷の家に来たということは、法の元で彼らは無関係なのかもしれなかった。
――男を咥え込む、魔性。
母が一度だけ隠しきれずに息子の前で吐き捨てた従兄弟へと侮蔑。あるいはそうなのかとも勘繰ったが、数度だけ会った同居人、まだ稚さの残る頬の丸み、少しませて染められた金の髪、発展途上の青い肉体から、従兄弟の吐く甘い香りはしなかった。それどころか、そう、余人に言い触らすことのできぬような関係の、年下の少年を家に囲うように住まわせてはじめて、従兄弟は人間らしい情緒を芽生えさせたようだった。
その少年は、ここにはいない。家に帰らなくなって久しい家主を、いまだ待っているのだろうか。如月は従兄弟の1LDKを思い出す。もともとは従兄弟が使っていたはずの一室を、彼は同居人に明け渡していた。そのせいで居間に置かれたそう新しくも見えない薄青の革張りのソファが、従兄弟の主な寝床になっていたらしかった。周囲に几帳面さと乱雑さとが同居する表現しがたい遣りかたで置かれた論文や医学書、電源線が床にのたくるノートパソコン、廃盤になって久しい黒い紙巻き煙草のカートン、飲みかけたまま忘れ去られたせいで珈琲の黒い染みのこびりついたマグ、そして蹴落とされてくしゃくしゃに丸まった掛け布団。クッション代わりにソファの端に置かれた枕。――血の臭い。
希新は衝動的に上着の隠しを漁り、棺に入りきらなかった煙草を取り出した。火をつけなければそれはただの草を巻いた紙でしかなく、過去から立ち上る血臭を消すことはできなかった。
「ライターを」希新は忙しなく口を動かした。「ライターを持っていないか? 夜宵」
弟は、暑さのせいでなく汗の雫を顎から垂らす希新を、血の繋がりを示す同じ色の瞳でじっと見た。そして溜息を吐く。
「やっぱり」噛んで含めるように、弟は言った。「あの人が関わると、昔から兄さんはいつもおかしくなる。兄さんは煙草が嫌いだったはずでしょう」
「ライターを貸せ」語尾に命令の響きが纏う。
「持ってないよ」夜宵は肩を竦めた。「おれも煙草は嫌いなの」
そういえば三冷の家では、誰ひとりとして煙草を吸わなかった。一時期だけガレージに住んでいた従兄弟を除いては。
「おれは兄さんを尊敬している。だから、あの人は嫌い」
弟は、頑なに従兄弟の名を呼ばなかった。まるで彼がまだ生きていて、その名を聞きつければ現れるとでもいうように。――否。希新は目を伏せた。三冷の家で、従兄弟の名は禁忌とほとんど同じ意味を持っていた。その習慣が抜けていないのだ。弟も、そして希新も。
「尊敬されるような人間じゃない」
爆弾に覆い被さったという従兄弟のほうが、むしろ尊敬されるべき人間のような気がした。三冷の家で養われていた中学生の頃、彼は医者を志し、勉学に励んでいた。拙いながらも雑談をするようになったのは最近のことで、彼も希新も三十路を越えていた。互いに、二度と会うことはないと思っていた。それでも運命は奇妙に捻れて彼らをもう一度引き合わせた。奇跡のように。あるいは宿痾のように。だから少しだけ、彼の経営する医院について聞いたことがある。看護師もカウンセラーもいい人ばかりで……。その言葉に誇示するような響きはなかった。かえって、引け目を感じているようでさえあった。
弟は低い位置から希新の横顔を見つめた。「でも、探偵業を始めたんでしょう?」
息子たちが稼業の理髪店を継がなかったことを母は大仰に嘆いたが、父はなにも言わなかった。自分の代で畳む心積もりはなかったはずなのに。弟子も取らず、最近は常連客も減っているという。先日、久々に実家に帰ったときに見た父の背中は、記憶の中のそれよりもずっと小さかった。萎びて乾き、老いていた。
後悔を、しているのかもしれなかった。
――今更?
希新は義務教育を終えるや否や、家を飛び出して夜の世界に入って行った。産声を上げてから揺り籠のように希新を守っていたあの家は、中学生の頃には希新を閉じ込める牢獄になっていた。当時の希新は、その原因を従兄弟に押しつけた。おまえがいるせいで、と家族の不和を彼のせいにして詰った。そして罪を犯し、それを正当化するために真っ当な人生というものから転落していった。今はもう従兄弟を責める気持ちはない。それほどの激情を飼うには、希新もまた、老いたのだ。たった一文字を足せば鬼と同じ響きの名を持つというのに。頬が皮肉っぽく歪んだ。
「巡り合わせだよ、巡り合わせ。おまえこそ、店のナンバーワンホストだって聞いたけど?」
「うそ、知っているんだ」
「探偵を舐めるなよ」
「なったばっかりなんでしょ」
兄弟の間で、気兼ねない会話が飛び交う。夜の世界に飛び込んだ兄のようにすまいと母は弟を強く矯正しようとしたらしいが、それが却って弟を兄と同じ世界に追い込んだ。高校を卒業した弟は、卒業証書さえ両親に見せないまま兄の背を追った。二十歳もとうに過ぎ、ようやくときどきは実家に顔を出すようになった希新に、皺と白髪の増えた母は何度でも同じ恨み言を言う。あなたのせいで。あなたがちゃんとしなかったから。お決まりの台詞は、やがていつもの言葉に収束してゆく。――そもそも、あれを引き取らなければ。
たった今一千度で焼かれているはずの「あれ」。この結末を知っても、きっと母は同じことを言うだろう。哀れな人。三冷の血の流れる父に嫁いでしまった。希新は空を仰ぎ見た。まだ、煙突から白い煙が伸びている。思ったよりも時間が掛かっていることが、少し不思議だった。もう焼かれてしまった人間を、もう一度焼いてどうするのか。
「でもさ、噂で聞いたときはちょっと意外だったよ」夜宵は額の汗を拭った。兄弟二人の影が土瀝青に濃く染みついている。申し訳程度の日除け屋根は錆びて、脆くなったその隙間から容赦なく陽光が差し込んでいる。
「おれもホストだし、偏見はないけどさ。兄さんが男相手に商売をしていたなんて」
ああだか、うんだか、適当に相槌を打つ。贖罪のつもりだったのだと気づいたのは最近になってからで、それまではただがむしゃらだった。皮肉にもそれがみずからに流れる三冷の血の、沸き立つ加害性を慰撫していたことさえ気づいていなかった。そもそものはじまりを辿っていくと、それは中学生の夏に戻ってゆく。冷房のないガレージ。弱々しく首を振る扇風機。三冷の血を引いている、烏の羽が濡れたような髪色と虹彩を持つ少年の、細く頼りない肢体。従兄弟が希新を見ている。無感動な瞳で。
――そもそも、あれを引き取らなければ。
案外、母の言うことは正しいのかもしれなかった。彼さえいなければ、あるいは希新は昼の世界を歩いただろうか。血に潜む鬼を、知らずにいられただろうか。
土瀝青に水滴が落ちる。いくつも。涙も汗もそうは変わらないんだったか、と希新は乾いたままの眼球と、従兄弟と同じ色の虹彩を、黒眼鏡で隠したまま独り言ちた。
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