深夜のコンビニ店員はかく語りき


目の中に入れても痛くない「君」だった。


 二千二百円になります、と言うべきだった龍也の口から漏れたのは、

「『YOU』……?」

 という曖昧な、しかし確信を持った呼び掛けであった。

 レジ台を挟んで炭酸水とカロリーメイトと、はたしてコンビニエンスストアで買うべきなのか首を傾げたくなるような洗剤や石鹸といった日用品を購入しようとしていた青年――いや、そう言い切るにはあまりにも幼い顔つきをしている――は、店内の無遠慮な蛍光灯のせいでくっきりと白眼に影を落とす睫毛のささめく音さえ露わに二度、三度と瞬きをした。きっと彼には節約するなんていう庶民的な感覚などないのだ――学業の合間にコンビニエンスストアでアルバイトをし、雀の涙のような時給を稼いでいる龍也はそう納得したが、そこに怒りのような感情はなかった。なぜならこの薄汚れたレジ台を挟んだ向こうでエコバッグさえ忘れてビニール袋の追加料金を払っている青年、いや青少年、とにかく、日本人では間違いなく浮く銀髪――気合いを入れて眉毛まで同じ色に染めている――、すっと通った鼻筋から下を隠す黒いマスク、長い前髪でさえ隠しきれないぎらぎら輝くインダストリアル、アンテナヘリックス、トラガス、数えるのも厭になる耳を貫く金属、そして嫉妬したときにもっともうつくしくかがやくだろう色の瞳をしてなおなんとか存在を隠していたのに、たった一言、

「レジ袋もお願いします」

と、姦しい店内アナウンスに掻き消されるようなほどの小声でさえ龍也にその青少年が「YOU」だと理解させたのだから。

 ボーカロイド文化が成熟し、歌い手が持て囃されるようになったのも今は昔、いっそバ美肉と語りこそが注目される時代になってなんの前触れもなくインターネットに君臨した、顔も名前もわからない電子アイドル、YOU。「あなた」という名前を冠しているくせに、歌う曲はみな破滅的で、退廃的で、そして感傷的で――誰にだって理解できない感情を、むりやり肺腑に刻みつけるような、そんな男性二人組のシンガーソングライター。正体不明のその二人を愛し求める人間は少なからずおり、そして龍也もまたその一人だった。囁いた一言で相対している人間が誰だかわかってしまうほどに。

「あの、サイン……」

 と龍也が勇気を振り絞れたのは、それが深夜で、店内には他の誰もいなかったからだったが、それでも「YOU」の瞳は鋭く周囲を見渡した。

「誰にも言わないと約束できるなら」

 青少年の声変わりのさなかのようなハスキーボイスがそう言うのに、龍也は壊れた人形のように何度も頷いた。その必死さにか「YOU」が笑って、マスクで隠されていてわからない口許の代わりのように、その銀で縁取られた目許が弧を描いた。

 黒く塗られた、しかし潔癖に短い爪の配された手が不意にレジ台という境界を侵して、龍也のつけているサイズの合っていないアルバイト用のエプロンの胸もとを掴んで引き寄せた。暴力的に。頬に、かすかな産毛の感触。黒マスクをずらした「YOU」の、いたいけな頬が、龍也のそれとほんの一秒触れ合って、そして龍也の耳に開いた臆病なピアス穴に犬歯が突き立った。

「おれの真似?」

 湿った吐息に混じったにおいを龍也はどこかで嗅いだことがあったが、どうしてもそれがなにか思い出せなかった。

 はひ、だかふひ、だかの返事をした龍也の耳許で「YOU」は喉奥で笑ってみせた。それは大型の猫科が喉を鳴らしたように聞こえた。そして次の一言は、まるで異なる人間が発した、そんな音だった。

「嘘ついたら針千本飲ます」

 はっと振り向いたときには「YOU」はもう龍也から離れていて、また元通りにマスクを引き上げていた。龍也はあり得ない想像をした。たとえばそのマスクの下に、二つの口があるのではないかと。あるいは二つの舌が、あるいは二つの喉が、あるいは――。

 「YOU」が瞬いた。この一瞬を切り取るように。そのとき、龍也は見た。見てしまった。「YOU」の瞳孔がナイフのように光を照り返したこと。虹彩が黄金に輝いたこと。睫毛の擦れる微かな音のあと、もう一度開いた瞳は、もう優しい緑に戻っていた。

 「YOU」はレジに表示されている金額を払い、そして一度も振り返ることなく店を出て行った。しばらく夢心地でレジカウンターを彷徨いていた龍也は、冷凍庫に入っている鶏肉を取り出して、そして気づいた。ピアス穴にまだ纏わるあのにおいは。

 まな板の上で、溶けかけた鶏肉の断面から同じにおいが立ち上っていた。切断された血と肉のにおいが。

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