3-1



   三




「ただいま! 母ちゃん、腹減った!」


 久太郎が勢いよく玄関のドアを開けて中に入ると、そこには久太郎の父・久明の靴があった。下駄箱の上にある置き時計を見ると七時過ぎを示していて、普段なら父は既に出勤して家にはいないはずの時間である。


「あれ。父ちゃん今日休みなの?」


 久太郎は靴を脱ぎ捨てながら大声を上げた。


「何言ってるのよ、今日は土曜日でしょ。そんなことより早く手を洗って、朝ごはんを食べなさい」


 台所から母親の声が飛んできて、それに促されるように久太郎はダイニングルームに入った。


 テーブルの上にはハムエッグやトースト、それにレタスやトマトのサラダが山盛りで並んでいる。


 久明は窓際の椅子に斜めに腰掛けて、コーヒーが入った大きなマグカップを片手に新聞を読んでいる。


「相変わらず騒々しい奴だな。またカブト獲りか?」


「うん、いつもの森でね。でも獲れなかったよ。コクワのメス一匹だけだったから、放してきちゃった」


 久太郎はそう言ってから手の臭いをクンクンと嗅いで、台所の流しで台所用洗剤を使って、木の樹液とササの汁と自転車のハンドルの臭いのする両手を洗った。軽く手を振って水滴を払ってから、流しの右側にある冷蔵庫のドアに、マグネット付ハンガーで提げてあるタオルで手を拭き、久明に向かい合って坐る。


「ねえ、父ちゃん。今日学校休みならどっかに連れて行ってくれる?」


 久太郎はトーストにベッタリとバターを塗り、さらにハーシーズのチョコレートシロップを茶色いプラスチック容器から絞り出しながら、久明に訊いた。


 久明は市内の県立高校で日本史の教諭をしている。職員は夏休み期間中でも、特別な用事がなければ平常通りに出勤することになっている。しかしこの日は土曜日なので、勤務は休みであった。


「そうだな。それじゃ、久しぶりに釣りにでも行くか?」


 久明は新聞から目を離さずに手探りでトーストを取り、それをかじりながら言った。


「ほんとに! どこにする? 海釣り施設? 釣り堀? 村田川はダメだよ、あそこは子供だけでも行けるんだから」


「その村田川でフナかハゼでも釣ろうかと思ったんだけどな。近いから行くのに楽でいいし、お前のホームグラウンドだからよく釣れるだろう?」


「えー、父ちゃんいるのにそんなんじゃあイヤだよ。フナ釣りするんなら菊間の釣り堀に連れていってよ、ほらヘラブナの」


 久太郎は以前久明に連れられて、ちはら台の近くにある「菊間へら鮒センター」という釣り堀に行ったことがあった。ヘラブナ釣りはその食性から釣りの対象としては難易度が高いといわれているが、その時は魚の気分が良かったのか、初心者の彼でもかなりの釣果に恵まれた。


「ヘラブナもいいな。でもせっかく思い立ったんだから、たまには遠出してみるか。亀山湖までバス釣りでもしに行くか?」


 自分の仕事に関連しそうな記事に赤ペンで囲みをしながら、久明は久太郎に訊いた。


 亀山湖は房総半島の真ん中の丘陵地帯にある。木更津市で東京湾に流れ込む小櫃川と、その支流の笹川との合流点付近をせき止めて造ったダム湖で、県下最大の規模を誇っている。


 この湖は、漁協が観光資源としてブラックバスやニジマス、ヘラブナなどのゲームフィッシュを放流していて、それらの釣り場として全国的に名高く、しかもどの魚種も大型が多いので、千葉県内のみならず関東一円から大物を夢見るアングラーたちが数多く訪れる。湖の畔には温泉旅館もあって、泊りがけでの釣行も可能である。


 久明も独身だった頃は頻繁に亀山湖を訪れていて、好きなフィールドの一つだった。


「いいね、いいね。大賛成だよ。亀山ってでっかいバスが釣れるんだよね。一度行ってみたいと思ってたんだ」


「そうか。父ちゃんもあそこはずいぶん久しく行っていないな」


「ジャイアンも誘ってやろうかな……。あ、そうだ。アイツと草刈堰に行く約束したの忘れてた。あ~危なかった」


「ジャイアン君って、いつもお前と遊んでくれている子だね。柔道初段ってはなしだったね。まだ五年生なのにたいしたものだ、お前と同い年とは思えないな」


「オレが遊んでやってるんだよ。それにアイツは柔道やってても、デッカイだけで強くなんかないし、たいしたヤツじゃないよ」


 久太郎は少しむきになって言った。久明が隼人を誉めたのが面白くないのだろう。


「そうか? でも初段で弱いということはないだろう? それに真に強い男は周りに力を誇示しないものだし、お前のように変な強がりを言ったりもしないものだぞ」


「でもアイツはオレの子分だもん。オレより弱いに決まってるじゃん」


「呆れた奴だ、お前は。ともかく、ジャイアン君を誘ってみなさい」


 久明は、佐久間隼人という少年にぜひ会ってみたくなった。


「うん、電話してみるよ。でもアイツ釣りなんかするかなあ、ヤゴ獲りもあんまり乗り気じゃなかったみたいだし」


 久太郎は居間のテレビの横に置いてある白い固定電話の受話器を取って、隼人の家に電話を掛けた。久太郎が電話越しに、


「父ちゃんが誘ってみろって言ってるよ!」


 などと大声で言っている声が聞こえてくる。


 しばらくして、久太郎は小躍りするようにステップを踏みながらダイニングに戻ってきた。


「ジャイアン行くって!」


「そうか、良かったな」


「でも魚釣りは初めてで、道具がないって言うから、うちにあるのを貸してやるって言っておいた」


「道具は父ちゃんのを使えばいい。お前の竿は柔らかすぎて大物が掛ったら折れるかもしれないから、お前も父ちゃんの竿を使え。ベイト・キャスティング・リールは慣れないと難しいから、スピニング・リールの竿の方がいいだろう」


 久明は新聞を畳みながら言った。


 ベイト・キャスティング・リールは横倒しにした太鼓のような形をしているが、スピニング・リールは糸巻が竿と平行になるようになっている。前者は構造が単純で古典的だが、ウインチのように糸巻自体が回転するので、投げる時の操作に手間がかかる。それに対して、後者は構造上糸に負担がかかり、撚れが必ず発生するが、使い方は簡単で初心者でも扱える。


「うん。それじゃ、物置から出して車に積んでおくよ。ルアー(疑似餌)は何を持っていく?」


 久太郎はスライスしたトマトを二切れ指先でつまんで口の中に放り込んだ。


「大きい方のタックルボックスにバス用のルアーが入っている。小さい方はトラウト用だから要らない。それと、物置の一番上の棚に、プラスチック・ワームの入ったケースが三つ乗っているから、とりあえず全部持っていこう」


「うん、分かった」


「ライフジャケットも三人分忘れずに積んでおけよ」


 久明は、玄関に向かって駆けていく久太郎の背後に声をかけた。しばらく間を置いて、はーい、と返事をする久太郎の声が物置の方から聞こえた。


「よし、行ってくるか」


 久明は冷めたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。


「あなた、お弁当を作りましょうか」


 妻も立ち上がり、久明に尋ねた。


「いや、途中のコンビニで買うからいいよ。せっかくやかましいのがいなくなるんだから、君はのんびりしていればいい。今日も危険な暑さになりそうだから、エアコンはちゃんと点けろよ。出掛けるんなら、ショッピングセンターのように涼しいところに行った方がいい」


 久明は妻にそう言ってダイニングを出た。


「帰りは何時頃になりますか?」


 妻もダイニングを出て、久明の後に続きながら訊いた。


「今日はよその子も行くからそう遅くはならないだろう。六時頃には帰ってくるようにする」


「晩ご飯は何にしますか」


「今日は食べない魚を釣りに行くから獲物はない。だからレトルトでも冷凍食品でも適当な、手の込んでいない簡単なものでいいよ。そうそう、時間があったら赤で囲んだ新聞記事をスクラップにしておいてくれないか」


「分かりました。くれぐれも気を付けて行ってきてください」


「うん、分かった。それじゃ、行ってくる」


 久明は妻にそう言い残し、普段よりも自分を気遣っている妻の姿を奇妙に思いながら、あえて後ろを振り返らずに玄関を出た。



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