二




 上空には、大きなオニヤンマが一匹飛んでいる。


 その上に広がる、雲一つ無い真っ青な空は高く抜けていて、東の方角からは、まだ朝だというのに真夏の太陽がギラギラした強烈な日差しを照りつけている。この分だと今日もひどく暑い日になりそうだ。


「池は?」


 久太郎は水筒をハンドルに引っ掛けながら訊いた。


「江戸川とか中川っていうおっきい川はあるけど、池は学校の観察池だけで他には無かったと思う」


 隼人は足元で忙しなく動いているアリを、見るともなしに見ながら言った。


「ふーん、おっきい川って養老川よりおっきいの?」


「川幅は養老大橋の辺りと大して違わないかもしれないけど、もっと水が多くて深いと思う」


「それじゃあヤゴとかゲンゴロウとか知らないだろう? ああいうの、流れがある様なとこにはいないから」


 アスファルト舗装と縁石との隙間にイネ科の雑草が芽吹いていて、そこに木の幹から剥がれ落ちたセミの抜け殻が引っ掛かっている。久太郎はそれを拾い上げて、隼人に、ほら、と言って手渡してから、自転車のサドルに腰をかけた。


「本物は知らない。昆虫図鑑で見たことはあるけど」


 隼人は渡された抜け殻を矯めつ眇めつ眺めてから、ズボンのポケットからティシューを一枚取り出して、宝物でも包むように大事そうにそれを包み、虫かごに入れた。


「図鑑じゃあ触れないもんな。どんな虫なら本物を見たことある?」


「うーん、ハエとかカとかゴキブリとか」


「えー、害虫ばっかり」


「そうそう、この間の夜、勉強してたら黒くて大きい虫がバタバタ音を立てて飛んできて、網戸にぶつかったんだよ。初めカブトかと思ったんだけど、ゴキブリだった……。なんだかすごくびっくりしちゃった」


「最悪……。夜に勉強なんかするからいけないんだよ!」


 久太郎は顔をしかめて首を振った。


「だって昼間は暑いから……。あ、そういえば桜の木にいるケムシとかもよく見たよ。うじゃうじゃ玉のようになってるやつ」


「ケムシかよ、それも害虫だよ。ケムシといえば昔、……二年のときだったかなあ、公園の桜の木に登ったら、ぐっちゃりと固まってるのを手で潰しちゃって、エライことになったっけ。手のひらの横の方の、皮が柔らかいところに赤いプツプツがいっぱいできて……」


「毛が刺さったの?」


「うん。すごく痛痒かった」


 久太郎はその時の感覚を思い出して顔を歪め、身震いした。


「大丈夫だったの?」


「全然大丈夫じゃなかったよ……」


 久太郎は顔を歪めたまま、首を大きく横に振った。


「お医者さんに行ってさ。ほら、近所の田中整形外科。あそこに行ってクリームみたいな塗り薬もらって、二週間くらいかかったかな、良くなるまでに。……で、他の虫は?」


「学校の池にはボウフラが湧いてたけど……。うーん、あれはカの幼虫だからやっぱり害虫だなあ。あっ、そういえばアメンボがいたっけ」


「アメンボなんかどこにでもいるし」


「あのさ、アメンボって飛ぶの、知ってる?」


「知ってるよ、実際に飛んでるのは見たことないけど。……って、もっとちゃんとした虫、見たことないのか?」


「そうだ、街灯には蛾が飛んできてたよ」


「ガ?」


「うん、この位の大きさのやつ──」


 隼人は右手の親指と人差し指で二センチほどを示して見せた。


「ずいぶん小っちゃいんだ?」


「うん、小っちゃい蛾だった。茶色っぽいような、白っぽいような……、なんか汚ったない感じの微妙な色で……、そういえば黒い点々も付いてたなあ。……あれはアメリカシロヒトリなのかな」


「アメリカシロヒトリ……? それってオレの手を刺したあのケムシがかえったやつじゃん、全然駄目だよ」


「そうかあ……。そうだ、こっちに引っ越してきてからカメムシはよく見るよ」


 思案顔で身近に居そうな昆虫を思い出そうとしていた隼人は、パッと表情を明るくした。


「カメムシ!」


 久太郎は嫌な顔をして鼻をつまんだ。その姿を想像するだけで辺りが臭くなってきそうな気がする。


「この間なんか網戸にどっさり止まってた。あれって緑色じゃないやつもいるんだね」


「茶色い奴のことか」


「うん。あれも害虫なのかな?」


「当たり前じゃん、あんな臭い虫。うっかり触っちゃったら、もう最悪! 石鹸で洗っても取れないんだよ、あの臭い」


「なんか灰色っぽい奴もいたけど?」


「灰色でも茶色でも、臭いのは同じだろ。カメムシなんか害虫の中の害虫だよ。キング・オブ・害虫!」


「うーん、キング・オブ・害虫かあ」


 隼人は残念そうに言って、眉毛をハの字に寄せた。その顔があまりに情けなく見えたので久太郎は吹き出し、


「呆れた奴だな、ジャイアンは。よし、それじゃあこれからヤゴ獲りに行こう」


「え、ヤゴ?」


「うん、ヤゴ。いろんな種類のヤゴがいるんだけど。ほら、あそこにオニヤンマ飛んでるじゃん、あれのヤゴはデカイぞ。それにジェット噴射ですごくすばしっこいんだ。ジャイアンなんかに捕まるかな」


 久太郎は、太陽の光を受けて翅をキラキラと光らせながら飛んでいるオニヤンマを目で追いながら言った。隼人も久太郎の視線を追って空を見上げた。その昆虫は、辺りをパトロールするが如くに行ったり来たりしている。


「あれのヤゴかあ、大きそうだな。でも僕は獲れなくてもいいよ。チョロQが獲ってくれるんでしょ」


「オレでも難しいんだけどな」


「捕まえたら飼えるのかな」


「飼ってもどうせ死んじゃうから、捕まえてちょっと遊んだら放すんだよ。さあ、行くぞ」


 久太郎は自転車のスタンドを蹴り上げて漕ぎ出そうとした。


「えー、ちょっと待ってよ。今すぐ行くの? その場所、近いの? ゲンゴロウもいる?」


「すぐそこだよ。ちはら台駅から川の方に降りていくと草刈堰って池があるんだ。そこではヤゴもゲンゴロウも獲れるよ」


 久太郎は隼人をチラッと見てから南の方角を指差した。ちはら台団地のすぐ南には村田川という二級河川が流れており、それに浸食されて出来た低地が広がっている。その流れの脇に灌漑用溜め池があり、それは親水公園にもなっていた。


「本当かなあ、チョロQにはすっかり騙されたからなあ」


 隼人はあまり乗り気にはなれなかった。大量のカブトムシやクワガタムシを想像して勇み出てきたのに、一匹も獲れずがっかりだ。その上、朝から暑いし腹も減った。これからまた出かけるのは億劫だ。彼はTシャツの腹の部分を伸ばして、顔の汗を拭った。


「本当だよ。タガメやタイコウチもいるぞ」


「えー、本当?」


 隼人の目は一瞬輝いたが、すぐに疑いの色に変わった。


「ウソだあ」


「何言ってるんだよ。お前、疑ってるな? 本当だよ」


「本当に本当?」


「本当に本当だってば。オレはジャイアンには嘘をつかないぞ」


 久太郎は頬を膨らませて、キッと上目で隼人を睨んだ。


「分かったよ。でもお腹が空いたから、行くの、朝ご飯を食べてからにしようよ」


 隼人は口許を曲げてしぶしぶ言った。その言葉に触発されたのか、彼の胃袋がグウと鳴った。


「ジャイアンはデッカイだけあってよく食うもんな。いいよ、九時頃に家まで迎えに行くから、それまでに食い終わっておいて」


 そう言いながら、久太郎も隼人の腹時計を聞いてひどく空腹を覚えた。


「うん、分かった。絶対いるよね、ゲンゴロウ。暑いのに行くんだから、いなかったらやだよ」


「大丈夫だよ。オレの命を賭けてもいいよ」


「本当だね」


「本当だよ。オレも腹減った。母ちゃん何か作ってくれてるかなあ」


 久太郎の腹の虫が盛大に鳴った。



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