第71話 水曜日の女神
高校生活最後の冬が近付いていた。すでにその年を締めくくり、新しい年を迎えるような話題がテレビやネットのニュースで、ちらほら取り上げられている。気が早いなと思っていても、実際に時間が経つのはあっという間だから、大人が先走り過ぎるのを責める事は出来ない。
机に向かい、参考書を前にした時、ふと二年前の夏を思い出す事がある。特に謎のままになっている事。ギターコンサートの夕べってどんな感じだったんだろうなと想像してみたり。隣に誰かがいたら、「そっち?」なんて言われそう。
言葉にするのは難しいけど、何だかモヤモヤした感じ。あの夏を思い出すと、懐かしくてほんのり甘い記憶と同時に、モヤモヤした感情も湧いてくる。そんな時は、ただ無心に参考書にピンクやグリーンのマーカーを引いた。
その金曜日も定期テストで学校から早く帰ったので、参考書を机の上に置き、マーカーを手に取ろうとしていた。その時、新しいラインメッセージの着信を告げる電子音が鳴った。
メッセージの送り人に、そしてその内容に目を疑った。
ラインメッセージは、週刊レーベンの平野さんからだった。
――あの女神を見つけたよ――
はやる心を落ち着かせて質問のメッセージを送った。
――どの女神ですか?――
――君のお父さんにレイン湖の夕陽を渡した例のお手伝いさん――
私は速攻で、平野さんに直接の電話を入れた。
「本当ですか? 消息不明だったっていう人が見つかったんですか?」
「消息不明というか、彩城家は、知人を介してお手伝いさんとして雇っていたから、本名を知らなかったらしいんだ。兄弟が多い彼女は幼い頃、名義のみ子どものいない叔母夫婦の養女になっていたんだ。その後叔母夫婦には子どもができ、養女自体も取り消しになったのに、法的な手続きをしていなかったから、違う名字を本名としたまま、通称生島佳代として生活していたんだ。それで今は結婚してまた名字が変わっているから、尚の事複雑だったらしい」
「どこに住んでいるの?」
「ここから一時間半かかるみなと町だよ。そんなに遠くでもないけど、あまり観光客は多くない漁港の町。ダンナさんは漁業関係の人で、佳代さんは魚市場のパートをしているんだって。義理の両親や子、孫達と大所帯で暮らしているそうだ。
すでに瑠璃子さんは会ったらしい。半日、思い出話をして過ごしたって……。例の事件の事は知らず、自分のした事で様々な人に迷惑をかけた事を謝っていたって。今はダンナさんのお父さんが脳梗塞になったりで大変らしい。だから取材等はしないでそっとしてあげてほしいと瑠璃子さんからの伝言付き」
「そうなんだ。どんな人か会いたかったな」
「遠くから見る事はできるよ」
「え?」
「金曜日の午後に、病院を外泊中のダンナさんのお父さんを連れて、魚市場を訪れるらしい。お舅さんも漁港関連の仕事をしていた人だから元気付けるために。歩道橋が近くにあるから、そこから見る事はできるよ。今日は金曜日。一緒に行かないか?」
「ええ。もちろん!」
断るなんてあり得なかった。
今は塾の講師をしている父さんがその日は半日勤務で、今の時刻は帰宅途中である事を、途中で思い出した。すぐに電話して、駅前での待ち合わせを取り付けた。待ち合わせ場所に現れた父さんは、私の身に何かあったのかと心配していた。
「菜々、何かあったのか?」
「大丈夫。でもとにかく緊急事態。一緒に行こう。会えるのよ、女神に」
「女神って?」
「ティユルに現れていた水曜日の女神よ」
平野さんと待ち合わせたコンビニ前には、すでにそのジャケット姿があった。促され、車の後部座席に乗ると、車は徐々にスピードをあげた。駆け抜けていく車窓からの風景。
父さんがすごく緊張しているのが分かる。今から目にするのは三十年近く昔、半年間だけ、でも心から好きだった人、そして失恋した人。父さんの今の気持ちは、私には想像できない。長い年月の後で好きな人や物に出会うって事。昔、小学校にあがる前、好きなぬり絵があった。毎日持ち歩いて少しずつ塗って……。その全ページの中に登場するクマが大好きだった。
中学時代に押し入れで、そのぬり絵を見つけたら、クマは昔みたいに見えなくて、何だか幼なすぎて不格好で、それがとっても悲しかった。
そうだ。二年前の夏をモヤモヤした気持ちで振り返るのは、やっぱり何かを好きになるのがキツくなったからなんだろうな、と気がついだ。
やがて車窓から見える風景がどこか懐かしい街へと変わり、小さな駐車場に平野さんが車を停めた。車から降りると、潮の香りがした。
「あの場所だよ」
平野さんが指した方向には、交差点があり、少し古めの歩道橋が架かっている。
「急ごう」
私達は、歩道橋を駆け上った。西に沈もうとしている太陽に追い付くかのように。
私達が歩道橋の上に三人で立った頃まだ明るかった空には、あっという間にオレンジのグミみたいな夕焼けが広がり始めた。
前に広がる漁港の風景。夕市が始まり、漁港の人達が忙しそうに行き来していた。海には幾つもの白い船がまるで一日の疲れをとるように停泊している。明日また漁に出るために?
「あの人だよ」と平野さんが指す。
そこには老人の車椅子を押す中年の背の高い、逞しい女性がいた。漁港の人達、お店の人達と何か話しながら、手に持ったハンドタオルで清々しく額の汗を拭っているのが見える。
夕陽の最後の金色の光の矢がその溢れるような笑顔を照らした。
私の隣で父さんが言った。
「綺麗だ……」
だから私も呟いた。
「そうだね、綺麗だね」って。
そして私は、あの夏の終わりから続いていたモヤモヤしたものが消えていくのを感じた。
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