第66話 小さな目撃者
駅から電話を入れておいたので、マンション前には、絵日記の作者、尾ノ上琴音さんの従姉妹である新田由貴さんが出迎えに来てくれていた。
「何か重要な秘密がこの日記の中に隠されているんですって? それはともかく若い方々がこうしてわざわざ昔の絵日記を見に来てくれるなんて嬉しいわ。琴音お姉さんとそのお母さんは、昔、手を取り合って生きていたみたい。私が小さい頃の事よ。私の父は琴音お姉さんのお母さんの弟で、その時は離れた地方に住んでたんだけど、いつも心配してたって」
そこからマンションの部屋に通されると、リビングルームの真中に小さなテーブルがあった。その上に置かれた大きな箱を見た時、心が震えるのを抑える事ができなかった。
「琴音お姉さんは絵がとても上手でね。私も小さい頃、親戚で集まった時には、いつもお姉さんにたくさん女の子の絵を描いてもらってたわ。だから絵日記が賞をとった時には、家族で展示を見に行ったのよ」
由貴さんは、箱の中から、一冊の古いノートを取り出した。四人のクラスメート達は、私の後ろに一歩下がった。ノートは私の手に渡された。
「中を開いていいですか」
「どうぞ。そこに座ってゆっくり見て。でも良かったわ。来週にはフランスに送る予定だったの」
「え?」
「琴音お姉さんの個展が近々、フランスで開かれるの。そこに展示する予定なんだって」
私は震える指でページをめくった。表紙を開くと、「1986年の夏休み 二年四組 尾ノ上琴音」と書かれてあった。心臓の鼓動が速くなる。
まためくると、「7月21日」とあり、「今日は夏休みの始まりです。お母さんが九州に住むおじさんの家に、暑中見舞いはがきを出すというので、ゆうびん局に行って、はがきをえらびました。おじさんは、お母さんの弟です。帰りに、お母さんは、ようがし店ガトーエトワールで、小さなケーキを買いました。夏休みが今日から始まるからです。クリームのついていないケーキです。でもお母さんは、家に帰って、甘夏みかんと卵の白身で作ったふわふわのメレンゲをのせてくれました。すると、まるでお店のウィンドウにあるクリームがのったケーキのようになりました」
隣のページには、蜜柑とふわふわのメレンゲで飾られたケーキを前に、にっこり笑った女の子の絵が描いてあった。その向こうにはお母さんと思われる女の人のエプロン姿。
興味をそそられながらも、今は悠長に読んでいる場合ではない。まずは問題のぺージを探さなきゃ。一ページ、一ページと私はめくっていった。1986年の夏が一日ずつ流れていく。
お母さんのチラシ配りについて行った事。公園でラジオ体操の後、子犬を触らせてもらった朝。お母さんが家政婦をしている家でもらったおすそ分けのクッキーを二人で食べる夜。お盆に盆踊り大会の会場まで二人で手を繋いで歩いた日の浴衣姿。夏祭りの帰り、川の土手で見た花火。カレーライスを作ってお母さんの帰りを待ちながら、アニメを見る夜。
そしてそのページに辿り着いた。青年が髪の長い、きれいな横顔の女の人に首飾りを渡している絵。首飾りにはオレンジ色の星のような物が付いている。そして、前に新井のおばちゃんが言ったのと同じような文章。
――今日はお母さんがお手伝いさんしている家に行きました。とても大きなお屋しきでびっくりしました。そこでお母さんの仕事が終わるのを待っていました。ちょっとだけ探けんしてみたくなってろう下を歩いていると、一つの部屋の近くから声が聞こえてきました。ドアのすき間から見ると、とてもきれいな男の人ががかわいい女の人の首に首かざりをかけようとしているところでした。「これは外国の湖にちなんでつけられた名前の、伝せつの首かざりだよ。これは持つ人を一生幸せにするんだって。これを君にプレゼントするよ」って言いながら。私は、はずかしくなってそっとお母さんのいる台所にもどりました。――
「……見つけた。これだ……」
私は、絵の中の瑠璃子さんの横顔に、直接触れないようにして、指を滑らせた。
何気ないような一日一日が記録されている一冊のノート。そこに書かれてある夏は、もう今は過ぎ去った遠い昔の出来事。でも今、目の前にある。
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