第60話 氷の女王に会う③水曜日の秘密
60. 氷の女王に会う③水曜日の秘密
「月島真宏氏は、レストラン、ティユルにいらしていた貴女から、レイン湖の夕陽を受け取ったと思い込んでいます。でもそれは違ったんですよね。ティユルにあの頃水曜日ごとに現れていたのは、やはり佳代さんだったんですよね?」
「そうです、彼女が私の洋服の中でサイズの調整のきくものを着て訪れていたんです。私のクレジットカードも渡してね。私が頼んだんですよ」
「どうしてそんな事を?」と私。
「私、自由になる時間がほしかったんです」
「自由になる時間?」
「信じられないでしょう?」
「いいえ。分かる気もします」と平野さん。「でもとにかくそのあなたにとって自由な時間というのが、スポーツジムに行っている時間だったというのは普通の感覚では不思議ですよね? スボーツジムで汗を流すのと高級レストランでお茶を飲んで過ごすのとでは、普通、後者の方が自由で贅沢に感じられますから」
「普通はね」
「でも違った。なぜなら、セレブの集うレストランで午後を過ごす方は、あなたの夫の彩城氏から許されている事であり、スポーツジムの方は中年のセレブに相応しくないとして許されていない事だったから……というのが私の推測です」と平野さんがポツリと言った。
「その通りです。付け加えて言いますと、あるサスペンス映画の影響なんです。夫から逃げたい妻が水泳を密かに練習して長く泳げるようになると、崖から飛び降り、水死したと思わせ、向こう岸に泳ぎ切るという。別にその通りにしたかったわけではないんです。ただたくさん泳げるようになったら自分が変われる気がしたんです。泳いだ距離を毎回ノートに記録してそれを足していって、もう国境を超えるくらい泳いだから逃げ切れるなとか。馬鹿みたいでしょう?」
「いいえ。でも切なくなります」と私。「そんな辛い思いをされていた事に」
「優しいのね」
「佳代さんは、貴女のアリバイ作りに協力したんですね? 別に犯罪ではないので、アリバイなんて言い方は変ですが」と平野さんが訊ねた。
「そうね。それに元々は、あのレストランの前をいつか車で通った時に、佳代ちゃんが『綺麗なワンピースを着てあんなレストランで紅茶でも飲んでみたいな』って言っていたのを聞いて思いついたんです」
「なるほど。佳代さんは逆にレストランの客になる事に憧れていたわけか。そして菜々ちゃんのお父さんである月島真宏氏はセレブ姿の佳代さんを見て恋に落ちた。ある日、彼女に店の前で告白したが、それは彼女が彩城邸を去る直前だった。ティユルを訪れるのもこれで最後という日。眞宏氏からの愛の告白に対し、彼女はごめんねと断っておきながら、別れ際に宝石を渡した。それは心より愛してくれる人に渡しなさいと言われていた物。
恐らく彼女は誰かの言葉を真一文字に受け止める性分だったんだろう。差し引きせずにね」と平野さん。
「確かにそうでした。それに今にして思うと、あの子は、宝石を持て余していたんです。私達夫婦の不仲を見ていたから、不吉なイメージを持っていたのね」
「佳代さんは宝石を誰にあげたか、貴女に話さなかったのですね? だから貴女はここにいる菜々ちゃんの母親が佳代さんではないかと疑った。父親がレイン湖の夕陽を持っていたから。でも実際には佳代さんは彼にレイン湖の夕陽を渡したけど、二人は恋人同士ではなかった。真宏氏の完全な片思いだったから。佳代さんにとっては、ほんの短い間、週一度だけ味わった貴婦人としての時間に終止符を打つ意味の物でもあったのかな」
「終止符を打つ? そんな時間が名残惜しかったのかな」私は自分が、大樹カフェに変身して入って行った日の事を思い出しながら言った。
「どうかしら」と瑠璃子さんは遠くを見つめるように言った。「貴婦人の時間は彼女の心に薔薇色に映っていた気はしないんです。憧れていたレストランも、佳代ちゃんにとって見かけほど居心地の良い素敵な場所ではなかったって聞いてます。そこに集まる客は他人の嫌な面をことさらに話題にしていると言っていました」
「佳代さんが家政婦の仕事を辞めた後、貴女達は連絡を取り合ったりはしなかったんですか? その後、彼女の消息は途絶えたんですか?」平野さんは訊く。
「実家の住所は知っていたし、しばらく近況を知らせる手紙を送ってくれていたんです。でもそれも二年半位かしら。だんだん頻度が少なくなって、四年目には年賀状が宛先不明で戻ってきました。調べてみると、その住所は大型レジャー施設に変わったばかりでした。ちょうど私が彩城の家を出ようかと思い始めていた頃の事です」
「これで大方の謎は解けた気がする」と平野さん。「ところで……」と瑠璃子さんに向き合った。
「失礼ですが、先程の若い頃のお話ですが、婚家が病院経営をされていたのなら、苦労されるより、専門施設に介護を委ねようと話し合われなかったのですか? 裕福ですし、良い施設を利用出来たかと思いますが」
「姑は家で、家族と一緒に暮らす事を望んでいたんです。私は嫁でしたが、本当の娘のように愛情を持って接してくれていました。私、看護師を志したのには理由があるんです」
「どんな?」
「大好きだった四才上の兄が体が弱くて成人式を迎える前に病気で亡くなったんです」
「そうだったんですか」それは言葉になったか分からない。平野さんも私も息を呑んでいたから。
「兄は病院に入院している事が多くて、あまり家にいる事がなかったんです。本当は家が大好きだったのに。私は兄に出来なかった事を他の人にしてあげたいって思いで看護師を目指したんです。だけどそこで気に入られて結婚し、仕事を辞めました。だから家族に病気があったというのは、運命なのかもって、そんな気がしてました。義母は常に私の意思を尊重してくれていましたし」
「でも夫の倫也氏の叔母であり、レイン湖の夕陽を先祖より譲り受けていたさえさんは難病で身体が不自由なうえに気難しかったと聞いていますが」
「家族から世話を受ける身だったから、色々複雑な思いがあったと思うんです。さえさんは、籠の中の鳥みたいな状態でもあったし」
理解あるんだな。私はふとクラスメートの子達の顔が浮かんだ。複雑な思いがあるから、意識して反発するような態度に出るって確かにある。自分にも。
でもまだ瑠璃子さんの表情は曇っている気がした。平野さんは続けた。
「佳代さんは消息不明であり、またご主人、失礼、元ご主人の彩城会長が訴えを取り下げない限り、貴女のお立場は変わりませんね。元々はどうやって佐伯さんの元にあの宝石は来たのでしょう? 来たというのも変ですが、まるで宝石の方が意思を持っていて持ち主を選んでいる気がしてならないんです」平野さんは言った。
瑠璃子さんは告白した。
「あのレイン湖の夕陽は結婚前、元主人から自宅に招かれた際、プレゼントされた物なんです」
「警察にはそう言ったんですか?」平野さんは訊く。
「もちろん。でもあの人はそんな事忘れているから、らちがあきません。最近になって実はあの宝石に思いがけない価値があった事を聞き、騒ぎ始めたんです。私が家を出て行った時に盗んだんだって。それまでは家の中にあったはずだと言い張るんです」
「その間に誰か他の人の目に触れた事はなかったんですか?」と重ねて平野さんは訊く。
「ありません。私と佳代ちゃんともう一人のお手伝いさん、そしてここにいる菜々さんのお父様だけね。年配のお手伝いさんは去年、病気で亡くなられました。菜々さんのお父様はずっと自分の秘密とされていたのでしょう?」
「じゃ、証拠もないんだ。でも理不尽ですよね。月島氏が貴女と会った証拠すらないのに」平野さんは悔しそうだった。
「ない事の証明は難しいものです。ずっと中傷され続けるのでしょうね。幸いこの施設のオーナーはゴシップを信用しない信条なんです。そうでなかったら採用されませんよね」
「貴女を採用したのは賢明な判断だったと思いますよ。今日お話して確信しました。もう約束の時間です。色々なお話が聞けて、今回の事件は今日一日で意外な解決をみせました」
「あの……」と瑠璃子さんは話しかけた。「さっき私が自由な時間がほしかったと言った時、分かる気がすると言って下さったのはなぜ? その言葉はいつも蔑まれるポイントなのに。少なくとも警察相手ではそうでした」
「車を選ぶ時、軽を買えなかったって話を聞いたから。僕も子どもの頃はずっと小柄で、でも周りの友達はみんな大きくて、自転車を買う時、本当は乗りたかったサイズだと馬鹿にされるからって無理して大きいのを選んでたんです。あと、プールでも自分には無理な水深の所で泳いだり。そんな思春期の頃、怖いし孤独でしたね」
「そう。それと、あなたの記事は読んでいますが、初めは好戦的でした。きっとご家族への医療過誤の件で、彩城会ごと恨まれているものとばかり思っていました。最近の記事は、好意的に変わっていますね」
「はい、ここにいる菜々さんと取材を共にして見方が変わったという事もあります」
私は何もしていないし。頬が火照るのが分かった。
その時、受付ロビーで、サキちゃんが一悶着起こしている事を私達はまだ知らなかった。
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