第58話 氷の女王に会う ①フォレストグリーンへ

 午後三時過ぎにに出発したのに、目的地に着く頃には太陽はかなり西の方に傾いていた。夏休みはあと六日で終わるせいか、それとも山あいの空気のせいか、もう辺りに秋の気配が漂っている。

 都心からかなり離れたその土地。訪問先は介護、リハビリ施設、フォレストグリーン。探していた人は、この山あいの施設で、施設管理長をしていると言う。


 駐車場にサキちゃんは残り、私と平野さんとは丘に立つ白い大きな建物の中に入った。

 私は怖かった。どんな風に怒られるか。もしかしたら手下がいて、暴力も振るわれたりする? なので、前もってサキちゃんに頼んでいた。一時間以上経っても戻って来なかったら、警察に電話して、と。平野さんからは責めて二時間に延長してくれ、警察でなく、施設の受付に行ってくれ、とと言われたけど。

 約束の時刻は、十八時。出迎えた男の人は、私の不安を覆すような物柔らかな物腰の人だった。私達は四階のある一室の前に案内された。その職員はいったん中へと入り、何か確認していた。

 その人が戻るまでの間、もし今から会う相手が怖い人だったらどうしよう、とそんな不安にかられ、胸がドキンドキンと鳴っていた。すぐに戻ってきた人から通された部屋には、スーツを着た上品な女の人が椅子に腰掛けていた。瑠璃子さんの聞いていた年齢は、ウチのばあちゃんの五才下のはず。でもとてもそんな風には見えない。ばあちゃんには悪いけど。


「はじめまして。施設管理長の佐伯瑠璃子です」

 私は前にお話した樹さんの言葉を思い出した。幼い時に会った彩城夫人はおしゃれキャットみたいだったのに、バイト先で見た彩城夫人と思われる女性は「101匹わんちゃん」のパーディタみたいだったという話。第一印象で私が思ったのは"おしゃれキャットの方だ!"という事。瑠璃子という名前が似合っている。そして想像していたのとは違って、全く怒っている表情ではない。優しそう。

 

「はじめまして。月島菜々と言います」


「週刊レーベンの記者の平野良です」


 そしてその後、平野さんから出て来たのはとても意外な言葉だったので、私は耳を疑った。


「お久し振りです」と平野さんは言った。



「ではやはり、平野良さんは、あの彩城会の医療訴訟の話し合いに来られていた、患者会の平野さんだったんですね」

 瑠璃子さんは尋ねた。


「気が付いていたのですか」


「そちらに掛けられて」とソファーのあるスペースに案内した。そして先程の職員に言った。


「お客様にコーヒーを出してね。あ、貴女には紅茶かハーブティーの方が良さそうね」


「ハーブティーをお願いします」


「ところで」と瑠璃子さんは私の方を見ていった。「そちらのお嬢さんがレイン湖の夕陽を持っていた方の娘さんなのかしら?」


「はい、月島真宏氏の娘です」と私。


「そう、さっき菜々さんって言ったわね。 今、何才?」


「来月、十六才になります」


「そうなの。とても健康的な小麦色だけど、スポーツをしているの?」


「小学生の頃は水泳をやっていました。中学からはテニスです。そのせいか健康にだけは自信あって風邪もひかない位です」


 調子に乗って喋ってしまっている。

 瑠璃子さんはくすっと笑った。えっと、こんな話をするために来たんだったっけ?


「そう。 水泳をしていたの。じゃあたくさん泳げる?」


 変わった聞き方するなあと思った。速いのかとか、得意な種目を聞かれる事はあるけど、たくさんってどういう意味だろう。


「はい、今はあまり泳いでませんが、持久力はある方でした。クロールが一番得意なんですけど」


「私、ずいぶん大人になってから泳ぎを覚えたのよ」


「本当ですか?」


「私ね、いつも自分がどのくらい泳いだか、全部書き留めていたのよ。そして世界地図にその距離分をペンで辿っていくの。ヨーロッパのこの都市からこの都市まで、もう泳いだ……とかね」


「すごい!それ、楽しそう。私、水泳してて、時々タイムが縮まらず辛くなる時あったんです。でもそんなふうに泳いでいたら、きっとワクワクしただろうなと思います」


 ハーブティーを一口飲み、これは菩提樹の蜂蜜と同じ味がすると思った。

 瑠璃子さんはじっと私を見つめ、笑顔をみせ、言った。

「菜々さん、あなたのお母様のお名前を聞かせて頂いていいかしら?」


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