第50話 退屈な夏休み
私は、翌日、璃空センパイに、平野さんの「取材はひとまず目標地点に達した」宣言について、ラインでメッセージを送った。センパイからの返事は「それでいいと思う」だった。それで真意を知りたくて電話をしてみたら、センパイからの返事は次のようなものだった。
「月島先生に罪があるという風には、もうならないって、この間聞いて、お互い安心したよね。確かに複数の人物が、二十五年前に、彩城瑠璃子という人物がティユルというフレンチレストランを訪れていた事を知っているんだ。本人かどうかは別にしても、彼女名義のカードも使ってる。そして月島先生が彼女に憧れていた事実を知っている同級生もいる。高校生が、その価値をろくに知らずに、憧れの人から貴重品を預かっても、おかしくないし、第一、もう時効だよ。先生自身ももうこれで終わりって言ってたし、当の夫人に会いに行くのって、向こうにとっても不利になるだけかもしれないし、はっきり言って迷惑と思う」
センパイは冷静に物事を分析していた。数学パズル部だけじゃこんな風に推理できなかっただろう。やっぱり平野さんの行動の心理学だったっけ。その影響を受けているのかな、悔しいけど。
そして璃空センパイは、ショッキングな話をした。
「これは言ってなかったけど、来年の春、大学受験は延ばして、半年準備をして留学する事にしたんだ。本当は直にでもそうしたいけど、世界的感染の状況はまだ落ち着いてないからね。もう実は、大体の事は決まっていて今はそのための準備をしている所なんだけど。その前に少しでも力になれたんなら良かったよ」
私は、話を聞いて、全身の力が抜けた。
私はと言えば、そんな風に切り替えて勉強にいきなり燃える、なんて事は出来なかった。
もちろん夏休み中も、相変わらず入院している母さんの所へ行って洗濯物を持ち帰ったり、の毎日ではあった。
父さんも、よく母さんの所へは来ているけど、女ならではの用事もある。
リハビリテーション病院を訪れるたび、母さんは患者友達を増やし、リハビリも順調に進んでいる様子だった。
おしゃべりな同室のおばちゃん、新井さんは相変わらずだ。
以前、医療法人彩城会の病院に入院していた患者さんも、このリハビリテーション病院には、結構いるらしい。新井さんもその一人だとか。
院長夫人は綺麗だけど、一時期ものすごく痩せていて、苦労しているんゃないかって、患者さんの間で噂になった事があるとか。それは、ティユルに水曜日の女神として現れた頃よりも、結構後の話。
「菜々、こっちに来て」
母さんに付いていくと、そこは外の景色の見える自動販売機スペースの一角。母さんはそこで二人分の缶コーヒーを買った。そして私に言った。
「あのおばちゃんの話、あんまり、当てにしない方がいいわよ。良い人なんだけど、他の人から聞いた話をまるで自分が体験したみたいに思い込んで話すタイプよ」
「知ってる。でも元は誰かの体験した事なんでしょ? じゃあ真実じゃない?」
母さんは少し首を傾げて考えていた。
「でもね、やっぱり自分のものじゃないわ。私と同じ。若い頃のある日、ブランド物のワンピースを借りて、別な誰か、素敵な人に化けて出かけたの。そうしたら父さんに出逢って付き合う事になったの。あの人が好きなのは高価な宝石だけど、私はただの石ころだったのにね」
「違うよ。私ね、最近、週刊誌の記者や宮田璃空センパイと一緒に、父さんの昔の知り合いに会って話を色々聞いたんだ。それで気付いた事がある。今まで父さんはブランド物が好きだと思ってたけど、そうでは無いんだって」
「それ、どういう事? あんた、そんな事までしてたの?」
「心配かけると思って言わなかった。でも本当、たまたま父さんの初恋の人がブランド物を着てたってだけだと思うよ」
「おかしな子。同じ事じゃない。だからブランド物着てるような人を好きになったって事でしょ?」
「もう。違うんだったら! 違う気がするの」
その違和感を私はどう説明していいか分からなかった。
*
夏休みの合間に、由乃からのラインメッセージが届いた。
「これから会わない? 観に行きたいって言ってた映画、今週で上映期間終わるよ」
それで一緒にシネコンに足を運んだ。
映画の後、由乃はすごく笑顔だった。
「やっぱあの監督、天才だよね」
見かけは変身しても由乃は変わらない。
「元気そうだね、菜々。良かった」
「いつも励ましのスタンプ、ありがとう。せっかくの誘いにも断ってばっかでごめんね」
「いいんだ。菜々も家の事とか忙しくてそれどころじゃないよね。それに……」
「それに?」
「ね。大倉高の男子と付き合ってるんでしょ? いつか菜々のお父さんが顧問の部活にいるって、家に来てた人かな」
「いや、付き合ってるってわけじゃなくって、父さんの事件の事、一緒に調べてるの。由乃に内緒にしててごめん。でもどうして? 分かった。あの子達がリークしたんだね。
クラスメート達」
「出処はそうかな。同じ夏期講座受けててさ。でもホントに菜々が好きな人と付き合っていたらいいなって思ったの」
「由乃達みたいに?」
「私達は別れたんだ。髪型も元に戻すよ」
「え?……そうだったんだ」
私達の間に沈黙が広がったけど、それをどうやって終わらせていいか、分からなかった。
「でもさ、また良い人、現れるといいね」私は出来る限りの何気なさでそう言った。
「私はもう当分、いいかな」由乃は呟く。
「そう?……私も。当分いいかな」
「は?」
「何でもない」
「そう。あ、それからあの子達、そんなにやな感じでもなかったよ」
「え? 誰?」
「ほら、マンモス校の子達」
「ん。知ってる」
*
私は残りの夏休み、やる事もモチベーションもなくなっていた。
それでとりあえずクッキーでも作ってみる事にした。村井翔子さんからもらったレシピのメモがある。ペールグリーンの用紙にプリントアウトされたレシピ通りに作ってみた。他の材料は手に入りやすく、じいちゃん、ばあちゃんの家の台所にある物ばかりなのに、菩提樹の蜂蜜だけがなかった。でもそれが一番重要な材料なんだ。いつもそう。他の物は結構、揃っていて、でも足りない何かが一つある。そして、それが他のものでは代用出来ない、一番重要で大切な物なんだ。それがないと、どうしようもなく空っぽな感じになってしまう。だからバスで三十分かかる大型スーパーマーケットまで足を運んだ。そこでは、高級食材も揃うと言う。そして、やっと菩提樹の蜂蜜を見つけ、買った。
クッキーの作り方はシンプルで、出来上がりもまぁまぁだ。これは私と翔太、じいちゃん、ばあちゃんだけで食べるには勿体ないかも。かと言っておすそ分けする程多くはないし。
そんな事を台所で考えている時、不意にじいちゃんから声をかけられた。
「ずっと家にいてもつまらんだろ。今度の金曜日、一緒にコンサートに行こう。翔太も一緒に」
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