第49話 亀裂
父さんの語った物語は、遠い昔の事なのについ昨日の出来事のように感じられた。スマートフォンなんかなくって、店の中には、ちょっとお洒落な電話がお客さんのために用意されていた時代。ガラス張りの向こうにある空は全然遠く感じられなくて。一途に好きな人を見て幸せでいられて。でも別れは突然やって来た。でも当の女神、あるいは氷の女王は今もその事を憶えているのだろうか?
いや、きっと憶えているはず。私は何となくそのネックレスを父さんに渡した氷の女王の気持ちが分かるような気がしていた。私なりに、だけど。もしかしたら、本当に自分を好きになってくれた人に渡したかったのかもしれないって。だから今、年齢を重ねたその人に会って、話をしたいと真剣に思い始めていた。
私は平野さんに電話をした。旧姓彩城だった瑠璃子さんに会いたいから、彼女の消息を調べてほしいという気持ちを精一杯伝えた。
でも答えはノー。電話の向こうの平野さんの声は、すごく遠くから聞こえてくるようで、それもいつもの熱い感じではなかった。
一通り、私の話を聞くと、平野さんは言った。
「菜々ちゃん、もう一緒の取材はひとまず終わったんだよ。その話はもう終わって君のお父さんは、この二十年以上、彼女に会ってはいないのだから、罪にも問われないだろう」
「父さんから何か、言われたんですか? 娘を巻き込むのは辞めろだとか何とか。それなら気にしないで下さい」
「いや、君のお父さんから反対されたからじゃない。確かに、もう取材に巻き込むのは勘弁してほしいとは言われたけど。本当にひとまず目標地点まで達したからさ。後は裁判を待つだけだし
」
「は? 目標地点とか、全然意味が分かりません」
「僕はね、今回、ひとまず目標地点を、月島真宏氏本人からの話を聞く事に定めていた。それが昨夜、実現した。瑠璃子夫人はどちらにしても、裁判後までは、取材に応じないだろう。あとは、ティユルに現れた女が瑠璃子本人なのか、あるいは偽物だったのか、という事に疑問は残る。でもどちらにせよ瑠璃子が自分に似せた誰かに頼んで偽装した事に間違いはない。何の目的かは分からないけどね。とりあえず裁判を待とう。僕はこれまでの事で、今回の『レイン湖の夕陽』についての連載をひとまず終了するよ」
「月島真宏本人からの談話? 目標地点?」
それは初耳だった。何か冷たいものが背中を走った。もしかしたら、私に会った時から、いや連絡をこちらの方からした時から、それが平野さんの目当てだったのだろうか? 私を通して父さんからの話を聞く事が。じゃあ父さんの人生の空白を埋めたり、それで守るという話は嘘だった?
「私は目標地点に達していませんから。最初の日に平野さん、言いましたよね。父さんの人生の謎の空白を埋めるって。私の目標地点は、最初から瑠璃子さんに会って、直接、レイン湖の夕陽の話を聞く事でした。でなきゃ、今までの事は、全く意味がありませんでした」
「全く意味がないなんて、あるわけないじゃない。意味はあったよ。瑠璃子夫人の事、色々聞けたじゃないか」
「でも噂話程度です。近所の人はみんな知ってた話でしょ。私、いなくても全然良かったし」
「そんな事ない。君がいたから聞けたんだ。本来の女王の姿を。僕みたいな目付きの悪い記者が乗り込んでも、大体良い噂話を人はしない。なぜだか分かるかい? それをこっちが望んじゃいないって思うからだよ。でも君は違う」
「何が?」
「僕と違って、透明な柔らかい心でその場にいるから、違う話が聞けたんだ。瑠璃子夫人の人間性に関する別な話を。君の持つ若さや温かさで」
「そんな話、今してない。私は利用されただけ。父さんからの話を聞くために。私がバカだった。夏休みの前半を無駄にしただけだった」
そう言って、私は通話を一方的に切った。
璃空センパイに対する気持ちが実らないのを予感して、ヤケになっていたというのもある。悔しくて、平野さんの連絡先を削除しようとしたけど、それは勇気が出なくて出来なかった。後で考えると、平野さんの言っている事が大人として理屈が通っているのに、我が儘な子どもの自分を抑える事ができなかった。
私は、和室の畳に寝転がって、目の奥と喉の奥に溜まった涙の固まりが消えるのをひたすら待った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます