第47話 1996年 クリスマスまであと6日

 一九九六年の十二月十八日、真宏が朝起きて思ったのは、クリスマスイブである終業式まであと六日だという事、そして今日は自分の誕生日だという事。そして一番大切な事、それは今日が水曜日だという事。

 この半年の間、水曜日になるのが毎週、待ちきれなかった。それは去年から続けている水曜日の午後のバイトに、想い人が現れる日だからだった。バイトしているのは閑静な住宅街の中にあるフレンチレストラン、ティユル。ティユルはフランス語で菩提樹の事だと店長が教えてくれた。メニュー表には、フランス料理、フランス菓子、それに数々の紅茶やハーブティーの銘柄が載ってある。ここに来るのは、主にセレブ達。特に平日はセレブな主婦達の溜まり場になっていた。

 その人が最初に現れたのは、春まだ浅い時期だった。レストランの職員の控室では真宏と友人のイツキが学校であった出来事を話していた。ふとエントランスを見ると、そこだけ光が射している気がした。眼を細めて見るとラベンダー色のワンピースにカーディガンのようなジャケットを着た女性が入って来た。ファッションモデルがショーで歩いているみたいだと思った。

 注文をとりに行くと、アフタヌーンティーセットを指した。「これをお願いします」

 その声は落ち着いた深い声で、ふっと見た斜めの顔は、想像より若く凛とした美しい表情だった。光の加減で肌に光がきらめいた。

 その日以来、真宏は他の女の子もアイドルもまるで目に入らなかった。


 ――今日は水曜日。また彼女に会える――


 それは幸せの呪文。でもイツキからは残酷な現実を突きつけられる。


「やめとけよ、マサヒロ。やべーから。あれは絶対、人妻だよ」


「え? でも若く見えるけど」


「だってカードの署名、見たじゃん。あれは彩城病院の院長夫人だよ。信じられんけど」


「ほら、オマエも信じられんって言ってるじゃん」


「だってオレが八才の時、オバサンだった人だよ」


「だから同姓同名なんだってば」


「違うよ。これは若返りの美容整形だな」


「勝手に想像ふくらませんな」


 彼女は決して誰かと連れ立って訪れたりはしなかった。そして他のお喋りな主婦達が同席しないかと誘っても応じなかったのだ。「お断りします」と素っ気なく。だからこの店の常連の主婦達からは感じ悪いと散々に言われていた。


 当時、真宏は入ったばかりの高校でヤケになっていた。担任の教師から、話し方が生意気だと目を付けられていた。ほとんど言いがかり。でもそんな理由で真宏にあえて近づかないクラスメートも多かった。別にどうでもいいと思いながら気分はいつも曇り空のよう。主婦の噂話に耳を貸さず、いつも颯爽と背を伸ばしている彼女からは、鬱蒼うっそうとした森を吹き抜ける爽やかな風を感じた。世界の隅っこにいた自分を引き上げてくれた気がした。


 特に真宏が好きなのは、夕暮れが近付き、夕陽が広い硝子窓越しに見える時間帯。いつも西に面した席を選ぶ彼女の頬に夕陽の黄金色が射して、真宏は思わず呟くのだった。

「綺麗だ……」


 そして今日は自分の誕生日。何か良い事がありそうな予感がしていた。それなのに何も知らない店長は、真宏にその日彼女が訪れている時間に少し離れた銀行への両替を頼んだのだ。たかだか十五分だけど、時間が勿体ない。急いで店に戻った真宏は、店の前で出て来たばかりの水曜日の女神に遭遇して、驚いてつまずいた。立ち上がりながら見上げる真宏を心配そうに見る女神。心臓が止まりそうだった。


「あの……」と声をつまらせる真宏に女神は微笑んで会釈した。

 その時、パニックに陥った真宏は自分でも信じられないような事を口走ってしまった。


「あなたが好きです。心から。信じてくれますか」


 夕焼けは最後のオレンジ色を降り注いでいた。女神は言った。「信じるわ。ありがとう。でもごめんね。こたえてあげられなくて。私、今日がここに来るの、最後なの」

 女神は背を向け、去ろうとした。でも何かを思い出したように振り返ると、言った。


「これ、あげる。ニセモノだけど」


 そして柔らかな手で何か冷たいキラキラ光る物を真宏に手渡しした。夕陽のカケラのような宝石だった。

 去っていく後ろ姿。冷たいものが頬に当たった。雪だった。それから先、予告通り、女神がティユルに姿を見せる事はなかった。



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