第45話 変身
次の土曜日の午後三時前に、喫茶ル・モンドに私と平野さんはいた。もう十五分も前から私達はスタンバっていた。敢えて別々のボックスの座席に。
やがて璃空センパイがやって来て、私の横を通り過ぎ、平野さんの席の正面に座る。グラスに入った水を一口飲むと、「菜々ちゃんが約束の時間ギリギリなんて珍しいですね」と話すのが聞こえてきた。私はゆっくりと二人のいるボックス席に近付く。璃空センパイは私だという事に気付かず、初対面の誰かを見るような目付きで、「あの、何か……」と言いかけた。作戦成功だ。私と平野さんは顔を見合わせて笑った。
「え、もしかして……菜々ちゃん? まるで別人なんだけど」
「かつての同僚で、今はファッション誌の方でやってるのがいるんだ。だから頼んで撮影用のを借りたんだよ。今日のためにね」
平野さんが説明する。
私は全身、スタイリストさんの選んでくれた人気ブランドの服に身を包み、おまけにその平野さんの知り合いが、特別に頼んでくれたメイクさんに綺麗にお化粧してもらっていた。まつ毛をクルンとカールさせ、唇はピンクのリップクリー厶でツヤツヤにした。
ファッション誌の記者という知り合いは女性でカンジか良い。
「平野君にこんな可愛い知り合いがいるなんてね!」なんて平野さんはからかわれていた。最初は恋愛関係かも、と勘ぐっていたけど、単に良い友達みたい。それに、この機会に私は平野さんに奥さんがいる事も知った。いや、奥さんがいても全然おかしくないけど、普段、自分の事なんて全く話さないし、あの鋭い目を考えると独身で友人も少ないのかも、と勝手に想像してしまっていた。でもまぁ、話してみるとカワイイ所もあるから、なんて最近は急に平野さん肯定派に変わっていた自分なんだけど。
ただちょっと気になる会話もあった。声が急に抑えたトーンになって、「……さんの具合はどう?」なんて、その記者さんが平野さんに尋ねていた。もしかしたら奥さんの具合が悪いのかとふと心配になったのだ。
でもすぐにまた、普通に明るい会話に戻り、私は「可愛い」、「キレイ」と褒められ、持ち上げられた。きっとスタイリストさん達のお得意の手なんだろうなぁ。これ、絶対、全部は信じちゃダメなやつだ。
「さあ、次は本番だ」と平野さん。
「本番って?」センパイが訊く。
「それはもちろん、長野樹氏を試すんだよ。本当に外見に惑わされない人物かどうか」
「へえ……」センパイはトーンが明らかに下がっていた。そんな実験が重要とは思っていないのだろう。
私達三人は、平野さんの車で、郊外にある大樹カフェへと向かった。窓の向こうは少しずつ夕暮れに近付いている。車内のクーラーの涼しい空気が頬にヒンヤリする。私はセンパイが、一言も今日の私の格好をほめてくれなかった事が寂しくてたまらなかった。
大樹カフェに着いた頃、空はオレンジ色に染まっていた。自動扉が開くと、向こうに支配人と思われる女性、その奥にオーナーの樹さんの姿が見えた。ヒールの高い靴で転ばないように必死だったけど、颯爽と歩いているフリをした。樹さんは眼を丸くし、そんな私を眺めていた。そして近付いた頃に言った。
「菜々ちゃん、どうしたの? 今日はそんなガールズコレクションみたいな格好でさ」
なんだ。全然服装に誤魔化されてないよ、樹さんは。そう思ったか思わないかという瞬間に、私の視界が逆転し、お洒落な照明の下がっている天井が視界に入った。
転ぶ瞬間の「ああ、やってしまった!」という後悔が頭のどこかをかすめた。
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