第38話 長野 樹
「マサヒロにこんな立派な、べっぴんさんの娘さんがいるとはね」
長野樹さんは私を見てそう言った。ここは彼の経営するカフェ、『大樹』。カフェというより、レストランのイメージに近い。この店の近くに自宅があり、夫婦と犬とでのんびり暮らしているのだとか。
店はガラス張りで、ガラスの向こうに綺麗に手入れされた庭園が見える。鮮やかなグリーンの葉からは木漏れ日がチラチラ漏れていた。
私と平野さんは隣同士の椅子に座り、テーブルの向かいには樹さんが座っていた。四人席だけど、今日は璃空センパイは「欠席」。今日は、父さんの青春について娘が聴くという内容の取材なので、第三者はいない方が良いと平野さんが言ったから。
「この大樹カフェってもしかして?」と平野さんが訊く。
「ああ、昔バイトしてたティユルと僕の名前にかけて店名をつけたんです。ティユルはフランス語で菩提樹を意味するんです。子どものいない叔父から受け継いだ会社の系列でやってるんですけどね」
私がパンケーキをナイフで切っているのを見て、こう言った。
「そのパンケーキに付いているハチミツは菩提樹から採れたハチミツなんだ。高校生の頃バイトしてた時に知って以来、このハチミツしか駄目なんだ。不眠にも効くんだよ」
「樹さん、父がティユルでバイトしていた時に綺麗な女のお客さんが来ていたって本当ですか?」
「いきなり切り出すね」樹さんは笑う。若い時と同じで、イケメンで人気者のオーラがある。
「あの、こんな事お願いして、もしかして迷惑でした?」と私。
「いや、話しちゃいけないような、ヤバい事なんてないからね。大丈夫。仮に何か口滑らしてもマサヒロに今度奢ってやれば済む話」
私はここにいる樹さんは本当に父さんに対し、今もそんな口を聞ける程、親しい間柄なのだろうかと考えた。父さんからは一度も長野とか樹とかいう名前を聞いた事がない。でも男同士の友情については分からないものがある。何年も会っていなくても、すぐに引き出しから昔の友情を取り出せるものなのかも。
「あ、綺麗な女の客だったよね。
ああ、憶えてるよ。マサヒロが憧れていた客。ってか、もう女神だったね。彼女が現れて窓際の席に座ると、その夕陽に照らされた横顔を見てウットリしてこう呟くんだ。『綺麗だ……』ってね」
私は、この打ち明け話は真実だと思った。
「じゃ、本当にお父さんの青春の話も聞きに来たんだね」
「え?」
「本当は事件の事だけかなって思ってた。いつか誰かが来るような気がしてたから」
「……知ってたんですね」と私。
「ああ。でもこの地域の他の連中は知らないよ。新聞にも名前まで載っていなかったから。でも僕はマサヒロの勤め先の学校を知っていたからね。成人式が終わって何年かした正月に、マサヒロは帰省したんだよ。その時に一緒に飲みに行ってね。勤め先の学校の事とか、来年結婚する話とか聞いてたんだ」
「そうなんですね……」
「その時にかつてのバイト先の話は出ましたか?」と平野さんが訊いた。
「うん。笑い話みたいにね」
「笑い話なんですか?」私は眼を丸くして言った。
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