第32話 ティユルとイツキ
「ティユルは十年前に閉店していて、今は経営者の違う石窯パンの店になっている。君のお父さんが高校生の頃バイトしてた時のティユルの経営者は、体調が原因で経営から手を引いたんだけど、その後三年もしないで癌で亡くなったんだ。その妻も去年、病死している」
「まあ、そうなんですか」
私は目を伏せた。
「この妻の方はまぁ老齢だったんだけど。とにかく夫婦が亡くなって、当時のティユルに関する記録等は処分され、何も残ってないと言っていいんだ。何せ、当時でも珍しくバイトに関しては給与振込をしてなかったから、銀行の口座にもバイト職員の記録は残ってなかったんだ」
「え? 父さんはタダ働きだったんですか?」
「んなわけないさ。現金で給料をもらうんだよ。知らないの? 昔はそうだったんだよ。そんな茶封筒なんかも文房具屋さんには売っててさ。なんて言っても知らないものは仕方ないよね」
いかにも当然だって感じで平野さんは言うけど、そんなに年齢が離れているようには思えなくて、知ってる振りなのかなと思った。
「それじゃ何も分からないって事なんですね、昔のお客さんの事も」
私は落胆した声を出した。
「ただ、経営者には子どもが二人いて、娘の方は今は動画配信サイトで活躍している料理研究家なんだけど、月島さんのお父さんがバイトしてた当時、八才位で小学校の帰りに、よく父親のレストランを訪れてたみたいなんだよ」
「そうなんですか?」私が叫ぶ隣でセンパイがホッと息を吐くのが分かった。
「それで君のお父さんの事もよく覚えていて、月で始まる名字というのがカッコいいって思ってたって」
「かっこいいって思ってたのは名前だけ?」
不満気に言う私を平野さんがなだめる。
「まぁまぁ。それで仲の良いバイト友達にイツキって呼ばれてる
「そのイツキって人が今回の事に関係あるんですか?」
センパイが尋ねた。
「関係はないだろうけど、重要な証言は聞けるかもしれないだろ? 二十五年前の事で、恐らく君のお父さんも例の奥様も見逃している事が何かあるはずなんだ」
「この事はうちの父さんにも話していい?」
「できれば話さないでほしい。公正にいきたいんだ。真っ白な所からスタートするというか。もし話しちゃうとお父さんから、イツキって人に連絡するかもしれないだろ? それだとその人の記憶も少し補正されるかもしれない」
「そんなものかな」
私はよく分からなかった。
「それに……僕はよく分からないんだけど、警察はまだ君のお父さんと彩城夫人の仲を疑ってるみみたいなんだ。その、つまり恋人同士なんじゃないかって」
「まさか! 憧れてはいたかもしれないけど。そんなん、あるわけないじゃない」
私は主張した。
「だからこそ違うなら違うって証明をしなきゃいけないんだけどね」
「あの、平野さん、父は警察に捕まるんですか?」
「さあ。もしかしたら共謀罪というのには当たるかもしれない。でも裁判があってからなのでまだまだ先だね。今は当面、逃亡の恐れもないのでそのままだよ。裁判になっても、君のお父さんが宝石を受け取って保管していた客観的証拠があれば罪には問われないだろう」
「そうなんですね。結果が出るのはまだまだ先なんですね。でも私達の周りにいる人達の中にはまるで父が犯人と思っている人もいるんです。家に刑事が来たりしたから」
「あの刑事達か。元々、彩城氏が自分の所有物は妻や従業員により盗まれている、なんて訴えを散々してて、うんざりしていたんだよ。あの人達も被害者みたいなものだ」
「そうなんですか?」
これはちょっと意外だった。
「ああ。レイン湖の夕陽というオレンジダイヤモンドの件も半分も信用してなかった。そんな物、初めからなかったんじゃないかって。それが意外な所から現れたので、まさかっていうのが本音だろう」
私はいつか璃空センパイが見せてくれた週刊レーベンの記事の締め括りの言葉を思い出した。
――物言わぬ美しい石に問う事が出来たなら……。本当に伝説通りに持ち主を幸福にしてきたのか、と――
なんだ。全然、幸福になんかにしてないじゃない。
その日、私と璃空センパイと喫茶ル・モンドの前で別れる時、もう一度平野さんは言った。
「イツキという友達について頼むよ」
というわけで私は父さんの個人情報に踏み込む事になった。平野さんの鋭い目に怖気づいたわけじゃない。その日のうちに。最初感じていた緊張感はなくなった。逆に向こうは、あきれてたんじゃないかな。
「君、良い神経してるよね。いや、褒め言葉で」なんて言っていた。初対面の、しかもこんな深刻な話をしながらホットケーキをぱくぱく食べていたからだと予想する。
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