第5話 黄昏

それから大きく時が流れていた。振り返れば、大学を卒業し三十数余年が過ぎた。夫々家庭を持ち、すでに己らが山岳に勤しんだ頃の年代と、同じ齢の子供らがいる。

社会人に成り立ての頃は、それでも互いに連絡を取り山行を共にしたが、今では山登りなど無縁のものとなった。夫々住む世界が異なって、別々の道に進んだことで、共に行く機会がなくなった。この歳になり、気持ち的には諸山へ憧れていても、今では行くことはない。けれど、時々昔のことが懐かしくなり、無性に入りたいというか、語り合いたくなることがある。学生だった四年間を通じ、山行で築いた仲間意識が、いまだに解けることなく結びついているからだ。

そんなことで、時々坂口、田村それに富永が、居酒屋に集っては安酒を酌み交わし、それぞれが若かりし頃の自分に戻るのだ。それも息子らの世代と同じ頃に遡り、昔取った杵柄の山行の苦労話に花を咲かす。

「懐かしいな…」

坂口が懐かしむと、田村がマジ顔で覆す。

「何、言ってんだ。ついこの前、会ったばかりじゃねえか。そん時も、昔の山行談義が主な話題だったぞ。それに、こんな飲み会がよく続いているよな」

すると、坂口が言い訳する。

「ああ、ただ俺が関西に転勤している頃は、途絶えたこともあったけれど、東京に戻って来てからは、こうしてまた集まりだしたものな」

「確かにこの顔ぶれで、よくも飽きずに集まると思うよ。頻繁じゃねえから、続いているんじゃないのか。それに俺が言っているのは、そんなことじゃねえぞ」

「ええっ、それじゃ何が懐かしいんだ?」

田村が疑問視すると、坂口が喋り出す。

「それは、二十代の頃のことさ」

「と言うと…?」

「あの頃は若かったよな。無茶なことばかりやっていたもん。そうだろ、飲みに行っちゃ。へべれけに酔っぱらって、山の話ばかりしていたじゃねえか」

田村も思い出し、二人の掛け合いが始まる。

「そうだった。学生の頃は学業より山に夢中になって、そちらの方が本業だったような気がする。今でも鮮明に覚えているのは、二月の期末試験が終われば、必ずと言っていいほど山に入っていたことだ」

「そうだ、試験が終われば、早めの春休みに入るから、その機会を利用して八ヶ岳に入っていた。あん時は冬山縦走だぜ。厳しかったしきつかったけど、その代わり冬山の美しさや素晴らしさは、何時まで経っても鮮明に甦るよ」

「まったくだ。この歳になっても、そう言われれば思い出すぜ。ああ、あの絶景何とも言えねえくらい感動した。でもな、今だからそう言えるが、あん時はきつくて、素晴らしさは感じたが、それどころじゃなかった。とにかく、疲れてくたくただったからよ」

「ようやく赤岳鉱泉小屋に着いた時には、ほっとした気分になって、完遂感で満たされていた。確か日が落ちて、薄暗くなりかけ雪明りに浮かぶ小屋の屋根が見えた時だったな」

「夕飯に自炊でラーメン作って食った後、だるまストーブにあたっている時、雪焼けで顔がじんじんとしていたっけな」

「そりゃ、俺だってそうだった。皆、おんなじだ。でもよ、縦走を終えて、翌日バスで山道を下る途中、後部座席で振り返り観た八ヶ岳連峰の雄姿が、俺らを見送っているようで、きらきら輝く峰々に名残惜しささえ生じた。そして、無事自宅へ帰り着き、翌朝目覚めた時の充実感は、何とも言い難い、満ちたりた気持ちになっていたのを覚えているよ」

「それによ。長い夏休みにはバイトで資金を稼ぎ、北アルプスの槍ヶ岳や立山・剣岳縦走山行もやっていたっけ。あれも、本当によかった…」

「そうだ、室堂にベースキャンプ用の天幕張って、立山・剣岳の縦走をチャレンジしたんだ。雷鳥の鳴き声が牛蛙の声に似ているな んて、思いもよらなかった」

「俺なんか、夜中に何でこんなところに牛蛙がいるんだろうと、不思議に思った。それが雷鳥の鳴き声だったなんて。そう言えば、この前会った時も、そんな話しをしていたよな」

「そうだったか。まあ、いいじゃねえか」

「それもそうだ。あん時の雷鳥の鳴き声を、今でも鮮明に覚えているんだから。こうやって、目を閉じると聞こえてくるようだ。ほら、田村もやってみろ」

「そうかい。それじゃ、俺も昔の記憶を呼び戻してみるか。富永も目を閉じてみたら如何だ?」

「ああ、分かった」

三人揃って、懐かしむように目を閉じた。

「おお、聞こえてくるぞ。あん時の雷鳥の鳴き声が。ううん、これだ。まさしくこの鳴き声だ。ああ、懐かしい…」

富永が、思わず感慨に耽っていた。

そんな時、唐突に坂口が尋ねる。

「昔よ、学生だった頃覚えているか?」

「おお、そうだった。富永なんか、金がなく何時もぴいぴいしていたわりには、遠慮なく酒を喰らっていたからな。それに、よくコーヒー代払わず飲んでいたっけな」

すると、富永が遠目になる。

「ああ、思い出したぞ。確か、『メッカ』と言う喫茶店だった。如何なっちまったかな。あの店…」

田村が懐かしむ。

「そうだっただろ、富永?」

「そうだっけ、あまり覚えちゃいねえ。そんなことあったかな」

振られ惚けた。その仕草に坂口がぶり返す。

「お前の性格は、何時になっても変わりねえな。今でも、あの時と同じじゃねえか!」

白髪の混じる髭を擦りながら、調子よく富永がほざく。

「大きなお世話だ。生まれながら備わった性格だい。今さら変えられるわけねえだろ。俺のことなど、放っといてくれ!」

ぷいと脹れると、田村が乗ってくる。

「そりゃそうだ。今さら富永とて変えられるわけでもねえ。だいたい、そんな気持ち更々ねえから。たとえ生じたところで、この歳になっちゃ手遅れというもんだ」

「おいおい、田村。いくらなんでも、そこまで言うことねえだろよ!」

富永が脹れた。売り言葉に買い言葉、三人は皺の増えた顔を緩め、笑い出していた。

そして、手に取る焼酎のお湯割りを口に運びながら、坂口が昔を回想する。皆、同じだ。すると、気持ちばかりが当時にタイムスリップする。そして、しばし目を輝かせ、山行談義に花を咲かせるのだ。 

それも、さもこれから冬山へ向うが如く、臨場感たっぷりに熱を帯びてくる。その浮き立つ瞳は、まさしく昔の己らの眼光の輝きだ。居酒屋の片隅でとぐろを巻き、萎びてきた身体をしゃきんと立たせ、大きな声で談笑し合う。

その笑いの中に、山岳山行の喜怒哀楽が懇々と湧き出ていた。

過去に遡ることで、今成し得ない経験という産物で夢を見る。あくまで願望という夢そのものだ。

昔の山仲間がたまに会い、酒を酌み交わし、同じ昔の正夢を楽しむのだ。そんな時、ひと時のタイムスリップした世界を味わえるのが、我らにとって、最高のプレゼントなのかもしれない。 

いいや、そうに決まっている。

そう望んでいるのが、今の俺らなのだ。

他人様から見れば、昔話で盛り上がっていることに、古臭さを感じるであろうが、俺らには、それが大切な宝物なんだ。話しが弾み出すと、心持ちが昔に立ち返る。

すると、年甲斐もなく本気モードで、山行計画が練り上げられる。気がつけば、途方もない冬山縦走計画だ。それも、冬真っ盛りの二月決行を目指している。真剣な目の坂口が伺う。

「ルートは、如何する?」

「昔、入ったところが無難じゃないか?」

田村が応えると、次々と質問が飛ぶ。

「装備は如何だ?ピッケルはあるのか?アイゼンは錆びていないかい?」

さらに、楽しげに田村が漏らす。

「冬山用の、厚手の靴下を買い揃えなきゃな。それに、冬山縦走となれば、結構荷物が重たくなるが、体力が持つか心配だぜ…」

はたまた、「キスリングザックなんて、とっくになくなっているんじゃねえか?物置小屋を探してみるか」などと、さも出発準備をするが如く、若き日の趣一辺倒に染まる。山行談義に目が輝き掌に汗を滲ませ、当時の心持ちになり、まるで両足が登山靴に包まれているような感覚さえ甦る。

過去の経験が、言葉遊びでの疑似体験となり、たとえ酒席であろうとも、擬似的に山行計画が練られ、山の頂を目指すことになる。

「おい、この歳で。昔のルート通りでいいんか?いくらなんでも、きついんじゃねえか?今一度練り直してみようぜ。意気込んでも、昔と今じゃ体力が違うんだ」

富永が少々疑問を呈し難色を示すと、坂口が同調する。

「おお、そうするか。途中でばてたんじゃ、さまにならんからな。とにかく、ルートを決めようぜ」

焼酎片手に、そんなひと時を楽しんだあげく、結局、翌日になると今の己に舞い戻り、現実を知る。はたと気づき、夢計画に終わるのが落ちだ。それでも昔取った杵柄で、その場限りの山行遊戯を楽しんだ。

何時もそうだ。

何時もこうなる。

夏真っ盛りの北アルプス。立山連峰と剣岳縦走登山。汗だくになり重いザックを肩から外し、一息ついた背中に、白い汗塩が連山の頂を描き出す。そして、厳冬期の八ヶ岳縦走では、谷底から吹き上げる雪風に睫毛を凍らせ、細めた眼光で絶景を堪能した。

目を閉じ、思い起こせば素晴らしいことばかりが、昨日の如く蘇える。そんな夢走馬灯を味わえば、これまた心満ち足りる。これぞ酒の肴には、持って来いだ。それでいい、それで今の俺たちには充分なのだ。

「田村、如何だ。お前だって蘇えるよな。懐かしいだろう」

坂口が尋ねると、田村も頷く。

「ああ、こうして目を閉じていると、手の平に汗が滲んでくるよ。なあ、富永だって同じだろ?」

富永に振る。

「俺か、俺は現実主義だから。昔のことはドライに忘れることにしている。だから、お前らみたいに感傷的にはならんな。むしろ、今を如何充実させ楽しむかを考えている。まあ、センチな君らには、俺の気持ちが分からねえだろうがな」

聞き及び、坂口が呆れる。

「いやしかし、お前は昔と変わりねえな。受けている感動は、俺らと同じなのに、屁理屈こねて、そうやって表現するんだから」

「そうだ、そうだ。富永は何時もそうやって、茶目っ気だしていたぞ。こんな古狸になっても、昔と変わりねえじゃねえか。夢ばかり食っている獏みたいでよ」

田村が毒づいた。

意に返さず、富永が強気に出る。

「おいおい、古狸とか獏とはひでえな。いいじゃねえか、放っておいてくれや。生まれつきの性分は、今さら変えられねえ。これが俺流というもんだ」

マイペースの彼がそこにいた。まさしく、そんな皆の瞳輝く時こそ、瞬時に山行へとタイムスリップし、厳冬期の赤岳鉱泉小屋でくつろぐ、三人の面々を描き出す。薪ストーブの燃え盛る炎に顔を赤く染め、浮かび上がる後姿が揺れていた。


田村は神無月の早朝、日課としている入間川沿い土手のウオーキングの最中に、余りの気分の良さに、ついと「学生時代」の替え歌を口ずさむ。

「…夢多かりし、あの頃の思い出を辿れば、懐かしい友の顔が一人一人浮かぶ。重いザックを背負い、歩いたあの山道。秋の日の奥穂河童橋、落ち葉踏み歩いた…。懐かしきあの頃、学生時代、学生…時代」…か。

シニア年齢になっていても、気持ちは若かりし頃のまま変わらない。傍から見ればそんな風に見えないだろうが、自分としては機会があればチャレンジしてみたい。昔、共に挑戦した山行に意欲が湧いてくる。

ああ、山はいいよな。また何時の日か行ってみてえな…。昔のようには登れないけど、ほんのさわりでいいんだ。ちょいと山の懐に入れば、山行気分が味わえるからよ」

旧友の顔を思い浮かべ「そうだ、皆に相談してみようか。あいつらだって、きっと同じ気持ちでいるに違いないって」

「近々に酒でも飲みながら、山行談義の傍ら話してみるか。何時もその気になって計画を立てるが、実現できねえでいるから、今度こそ汗かいてみてえもんだ。賛同してくれると思うがな…」

何時か必ず実現させたい。そんな思いを募らせ歩いていると、夜明けの合図か、淡い太陽が昇り始めていた。

目を細め、一つ大きく息をする。満ちる気持ちが湧き上がり、まるでウオーキングシューズの足取りが、山道を歩く登山靴に朝靄が纏わり付いてくるような、そんな心持ちになっていた。



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