第4話 酔い心地
それから、そんなこんなで二ヶ月ほど月日が流れた。久々に坂口が田村に電話を掛ける。
「おい、あれから如何していた。就活の方は、程々目鼻ついたんか?」
「おお、お前は如何なんだ。最近連絡なかったが、上手く行っているのか?俺は相変わらずくすぶって、一向に決らねえんだ。面倒臭いというか、つい鬱陶しくなって、考えるだけで嫌になり、各社のホームページ検索はおろか、企業訪問もしてねえよ」
「そうか、俺も二、三当たってはいるが。いい返事を貰えねえで、少々焦りはあるが、乗りが悪くてな」
田村がぼやき応えた。
「ところでよ。就活の方はぼちぼちやるとして、それより来月辺り、夜行日帰りで丹沢か、もしくは一泊ぐらいで、ちょっと遠出しないか?」
「そうでもしなきゃ、如何も気分が悪くてよ。就活するにも、こう滅入っては旨く行かないぜ。ここいら辺でちょいと気分転換し、それと今度の冬山登山のための体力増強を兼ねて行かねえか?」
坂口が提案した。すると、待ってましたとばかりに応じる。
「いいね。俺も最近、少しも身が入らねえ。夏山に入ったきり行ってねえもんな。それに先日練った計画も机上で終わったし。身体がうずうずして、如何も就活に身がはいらねえんだ。是非とも願いたいね」
「それじゃ明日あたり、酒でも飲みながら打ち合わせするか。俺の方で富永に連絡しておくからよ」
「いいね、そうしようぜ。ところで、明日何時、どこで待ち合わせる?」
「そうだな。それじゃ、たまには池袋にでも出るか。何時も市川の田舎ばかりじゃ飽きるからよ」
「おお、そう願いたいね。何時も地元で飲んでんじゃ、田舎臭くてかなわねえからよ。たまには都会の空気に触れねえと、辛気臭くなるしな」
坂口の提案に、田村は乗り気で応えた。
「それじゃ、明日午後五時に池袋西口改札で待ち合わせだ。それでいいだろ」
「ああ、構わないよ」
「じゃあ、俺の方で丹沢のガイドブックと、他の資料を用意して持って行くから」
「そうか、それは有り難い。それじゃ、明日池袋で飲みながら決めよう」
「分かった、それに奴の方には俺が連絡を取っておく」
「任せたぜ、それじゃな」
「ああ」
互いに携帯電話を切った。早速、富永に架ける。
「もしもし、富永か?明日、空いているか?」
「…」
「何、黙ってんだよ。富永だろ?」
「…」
「あいや、間違えたかな。あの…、富永さんですか?坂口と申しますが」
「…」
「あの、富永さんのお宅ではないですか?」
「…ああ、そうだよ」
「何だ、富永か。電話を架け間違えたかと思ったぜ。富永なら富永と、すぐに言わないもんだからよ」
「あのな、坂口。人様に電話をする時は、まず自分から名乗って、まあ、画面に相手名が出るが、念のため誰であるか確認して、話し始めるべきだろ。それを藪から棒に、俺の名前を呼んで、明日空いているかはねえだろ。まったく、常識に欠けるんだからよ」
「おい、富永。身体の具合でも悪いのか。それとも虫の居所が悪いのか?妙に突っかかるじゃねえか。如何なんだ。如何せ暇こいているんだろ。明日、田村と夕方一杯やるから、だから夕方五時に池袋駅西口の改札へ来いよ。いいな、分かったな」
すると、異を唱える。
「ちょっと待て。一方的に、暇だなんて決めつけるなよ。俺はお前らと違うんだ。何時も言っているだろう。不細工なもてねえ男と一緒にしないでくれと。お前らと違って、女の子に引く手あまただぜ。暇なんかありゃぜん。分かっているだろ」
「ああ、そうだったな。お前はもてて暇がなく、俺らと酒を飲むことも出来ねえというわけだ。そうか、そういう冷めてえ奴なら仕方ねえ。せっかく田村を誘って、来月辺り山へ入ろうと話していたところだが。それで、その打ち合わせに、たまには一杯やりながら日程を決める段取りだったんだ。断わるということは、今回の山行は参加しないということだな。そうか、分かったよ。それなら仕方ねえ、電話切るから。それじゃな」
そう言われ、慌てて繋ぎ止める。
「ああ、ちょっと待ってくれ。何もひと言いっただけで、仲間外れはないだろ。山行の計画で集まるんだったら、端からそう言ってくれたらいいじゃねえか。それなら、お前らと一杯やらにゃなるまい。山行計画じゃ、俺がいなけりゃ始まらねえだろうからよ」
「ううん、まあな…」
「それだったら、彼女とのデートを取り止めて行ってやるよ。しゃあないぜ、お前らのたっての頼みじゃ無視できんからな」
体よくこじつけた。坂口は何時ものことだと聞き流す。
「それじゃ、明日池袋西口に五時に来いよ。三人揃ったら、その時飲む居酒屋を決めるから。そうだ、富永。遅れるなよ。俺らを待たせるな」
「分かったよ。必ず五時までに行くよ」
「そうか、それじゃ明日な」
「ああ」
携帯電話を切った坂口は、最近何となくもやついていた気分が一掃されるように、胸の奥で山道を歩く時のように騒ぎ出していた。
一足早く、坂口が池袋西口の改札へと来る。
ちょっと早かったかな。まだ五時には二〇分もある。まあ、いいか、待つとしよう。田村が丹沢のガイドブックを持ってくると言っていたが、結局俺も谷川岳のガイドブックを持ってきた。一泊となると気軽には行けなくなる。まあ、夜行日帰りで、ここら辺がいいんじゃないかと思ってよ…。
そんなことを思慮しつつ、二人が来るのを待った。直に田村が姿を見せる。
「いよっ、待たせたな。ちょいとばかり野暮用で遅くなっちまった。さあ、何処へ行く?」
「あいや、富永がまだなんだ」
「やっぱりそうか。遅れるのは、何時ものことだ」
「あれだけ遅れるなと言っておいたのに、直らんな」
「そう言えば、丹沢のガイドブック持ってきたか?」
「ああ」
「いや、俺も谷川の案内ブックを持ってきたんだ。丹沢は何時も入っているだろ。たまには、ここら辺りがいいかと思ってよ」
「そうだな、検討する価値はあるな」
そんな話しから、暫らく二人で山行談義をしているところに、遅れて富永がやって来た。すると、田村が吠える。
「富永、遅いじゃねえか。待ちくたびれたぞ。まったく、お前は何時もこれなんだからよ。毎回とは言わんが、たまには俺らより先に来て、待つぐらいの甲斐性を見せたら如何なんだ!」
すると、平然と小指を立て応じる。
「おお、悪かった。お前の言う通りだがよ。そうしたいのは山々なれど、これがなかなか離してくれねえんだ。今日は大事な打ち合わせがあると説得しても、言うことをきかないんで困ってな。やっと振り切って来たから、その辺の事情を汲んで許して貰えんか。なあ、田村さんよ」
「あれれ、またこれだ。まったく反省の色がねえ。そればかりか、己の取った行動を正当化し許せだと。まさか、富永。お前の言っていることは冗談だよな。何時もの絵空事だろ?」
「あいや、本当だ。ああ、そうか。お前らには、この苦しみが分からねえよな。俺だって愛しい彼女と片時も離れたくない。けどよ、是非とも来てくれというたっての頼みじゃ、断るわけにもいかねえじゃねえか。なあ、坂口?」
「ああ、そうかいそうかい、富永分かったよ。田村、これ以上突っ込んでも益々調子に乗るだけで、よけい後味が悪くなる。こんなことで目くじら立てていては、こっちがもたねえ。この際、受け流せ。富永の言うことを、まともに聞いていちゃ、ろくなことないからな」
坂口ががっつりと諭すと、調子こく。
「そうだ、田村君。大局的に物事を見なければいかんぞ。この俺が少々遅れたぐらいで、目くじら立てていては、己を見失い大局が見られなくなる。気をつけたまえ」
富永が己の怠慢を差し置いて、能書きを垂れた。
すると、田村が呆れる。
「おい、何が大局だ。手前の遅れで迷惑をかけておいて、何という言い草だ。阿呆らしくて聞いてられん。ああ、毎度これだもんな。これ以上何を言っても直りゃせんぞ。馬鹿かばかしい」
諦め顔でせっつく。
「それより、早く飲みに行こうぜ。何だか、急に腹がへって来ちまったよ」
「ああ、そうしよう。ところで、何処へ行く?」
頷きつつ坂口が尋ねると、富永が口を挟む。
「諸君、俺に任せたまえ。行きつけの店でよければ案内するが、如何だ?」
鼻をつんと上げさらに続ける。
「ところで、大人に成り切れていない田村君、どこか招待してくれる店でもあるのかね?」
そう言われ、田村が訝る。
「ははん、何だと。お前こそ性格が悪いくせに。それを棚に上げて、ふざけたことを抜かすじゃねえか。何が、『大人に成り切れていねえ』だと、こりゃ話しにならんぜ。坂口、何とか言えよ。この無頓着な富永によ。俺は呆れてものも言えん」
「まあまあ、二人とも。久しぶりに会ったんだ、程々にしておけよ。これから一杯やりながら、来月行く山行計画を話し合わなきゃならんのだぞ」
坂口が平然とする富永を窺がい、更に憮然とする田村を宥めた。
「さあ、富永。どこへ連れて行ってくれるんだ。お前の馴染みの店ということは、言わなくても承知のうえだよな?」
「えっ、何を承知のうえって?」
富永が訝ると、坂口が突っ込む。
「決まっているだろ。連れて行ってくれるんだろ」
「ああ…」
「それじゃ、決まっているじゃねえか」
「だから、何が決まっているだよ。坂口の言っていることが分からねえな…」
「おや、分からねえもないもんだぜ。お前は何時も、俺らに多大な迷惑をかけているわけだから、それの償いというか。そういう意味で、馴染みの店に連れて行ってくれるんだろ?」
「まあ、ううん。俺が何時も行く店だけれど。それと、お前が言うことと、如何いう繋がりがあるんだか、いまいち理解できねえんだよな…」
「まあまあ、そう深く考えることはない。お前の何時もの乗りで招待してくれればいいんだ。そう言うことでいいよな?」
「まあな、招待というか紹介と言うことになるが…」
「いいじゃねえか、富永。深く考えるなよ。お前らしくないぜ」
「まあな…。如何も坂口の言っていることが分からねえ。まあ、とにかく俺について来いよ。気に入って貰えると思うがな」
「そうかい、そんなにいいところか?それじゃ、馳走になるぜ」
そんな坂口の鎌賭けに、はたと気が付いたのか、口を尖らせる。
「おい、待てよ。何が馳走になるだ。それじゃ、まるでお前らに奢ってやるみたいじゃないか!」
「そうだ、決まっているだろ、富永!」
「ええっ、何を言うんだ、坂口。俺はそんなこと言った覚えがねえぞ!」
驚き、否定する。
「如何して、お前らの飲み代を払わなきゃならねえんだ?」
すると、坂口が念押しする。
「あいや待てよ、富永。今お前が言ったばかりだろ。迷惑代わりの償いに、お前の馴染みの店へ連れて行ってくれるんだよな」
「ああ、連れては行くが、飲み代を払うとは言ってないぞ。勘違いしないでくれよ」
「何だ、そうだったのか。てっきり罪滅ぼしに奢ってくれると思ったぞ。なあ、田村。お前もそう受け取っていただろ。富永が馴染みの店へ連れて行くと言った時によ」
坂口がわざとらしく導くと、田村が至極当然と応える。
「ああ、そうだ。俺らに対する日頃の迷惑料代わりということからすれば、当たり前だぜ!」
「二人とも、何を言うんだ。とんでもねえや、お前らみたい不細工な山男に誰が奢るかよ。ああ、危ねえ。危うく引っかかるところだったぜ」
富永が冷や汗を拭った。
そんな慌てる様子を見て、愉快そうに二人は、一泡を吹かせたとばかりに、笑みを浮かべた。
「とにかく、早く連れて行ってくれませんか、富永先輩!」
田村が追い討ちをかける。
「何を言う、田村。割り勘だぞ、割り勘。分かっているよな。お前らの分なんか、絶対に払わねえからな!」
「まあまあ、そう硬いことを言わずに、早く馴染みの店とやらに連れて行って下さいよ」
坂口が軽口に乗った。
「冗談じゃねえよ。何で俺がお前らの飲み代払わなきゃならねえんだ。二人ともよく聞いてくれ、連れては行くが、飲み代は割り勘だからな!」真顔で念押しした。
すると、坂口らが顔を見合わせる。
「富永、冗談だよ。金欠病のお前に、誰がたかるか。そんなこと願うこと自体、無駄なことだからな」
「そうそう、俺は何時も金がねえから、奢れと言われても出来ねえ相談だ。それにしても、俺を落とし入れようとしやがって、勘弁してくれよな。身体に悪いじゃねえか。まったくもって、びっくりしたぜ」
ふうっと息を吐き、富永の顔が安堵顔になった。それに坂口がおちゃらける。
「あれ、富永。お前、このくらいの冗談で、身体の具合が悪くなるのか。何言われても馬の耳に念仏で、のらりくらりして堪えない奴がよ」
「坂口、からかうのはよしてくれ。それでなくても精神的に脆い面があるんだから。それよりも、早いとこ行こう。気分直しに一杯やりてえよ」
「そうだな。お前をからかっても、一文の得にもならねえからな。富永、早いとこ連れて行ってくれや」
「ああ、分かったよ。但し、割り勘だからな」
さらに、駄目押しした。
「さあ、早いとこ行って、来月の山行予定を決めようじゃねえか。そのために集まっているんだろ」
坂口が促すと、二人とも目を輝かせ応じた。
「おお、分かった。さあ、行こうぜ!」
三人は池袋駅西口を出て、富永の馴染みの店へと向かう。
「しかしよ。まだ六時前なのに、すげえ人混みだな!」
田村が辺りを見て驚いた。すると、富永が見下す。
「おい、田村。あまりきょろきょろするな、田舎者みたいに思われるぞ。それでなくても、不細工な顔をしているんだ。不審者と間違われるからよ」
「何、言ってんだ。不細工はお前も同じだ。今の今まで、うろたえていた奴が開き直っていやがる。…しかし、それにしても多いな」
田村が忙しく見回していた。すると、富永がぽつりと漏らす。
「まさか、池袋は綺麗な姉ちゃんが多いな…」
「あれれ、富永よ。いいのかそんなこと言って。彼女に聞かれたら不味いんじゃないか?」
「いいや、それはそれ。関係ねえ」
曖昧な弁解をした。すると、すかさず田村が比喩する。
「そうかいそうかい、もてる男は辛いな」
「ううん、まあな…」
「おい、そんなこと如何でもいいから、早く行こうぜ」
坂口がせっついた。
ほどなく歩くと、富永が前方を指差す。
「ほら、あそこの店だ!」
「おお、あれか。あれっ、何でえ居酒屋じゃねえか。富永、お前の馴染みの店って、そこらにあるネット店の「じん八」か?」
田村ががっかりして告げると、平然と富永が応える。
「ううん、まあな」
「何だ、もっと洒落たところかと思ったが、「じん八」とはな。富永らしいぜ」
坂口と田村が顔を見合わせた。
「まあ、富永じゃ。これが関の山か」
「いいじゃねえか。安くてたらふく飲めて食えるんだ。文句はあるまい。俺は何時もこう言う居酒屋にしか来たことねえ、だから馴染みなんだよ」
躊躇いもなく告げると、「うへっ、何と言う言い草だ。もったいぶらせ馴染みだと言うもんだから、変に期待をして損したぜ」
田村が気落ちした。
「まあ、仕方ない。どこでもいいじゃねえか。要は一杯やれて、山行計画の話が出来ればいいんだから。まあ、「じん八」なら気楽にそれが出来るか」
「そうだろ、俺もそう思ってここにしたんだ。分かってくれるか、坂口」
「ああ、富永らしいぜ」
田村が、さらりと虚仮下した。
「さあ、早く行って冷えたビールが飲みたいぜ。富永先輩、今日はご馳になります!」
急かし嘯いた。すると、坂口までもが乗る。
「宜しくな。今日はたらふく飲ませて貰いますよ」
嫌味を言った。
「おい、何を言いやがる。さっき断ったはずだ。それをまたぶり返すなんて、俺は知らんぞ。お前らの飲み代なんか、絶対に払わねえからな!まったく、何度言わせるんだ。くそっ、馴染みの店なんて、言わなきゃよかった。失敗したな」
悔やみぼやいた。その様子を後ろから見つつ、坂口が急かす。
「おい、富永。そんなところに立ち止まって、何ぐずぐずしているんだ。早いとこ入ろうぜ。なあ、田村」
「おお、そうだ。富永先輩、早く入りましょうよ。喉が渇ききっているから、早く冷たいビールを飲みましょう」
「そうだよ、早く飲みたいな」と坂口。
二人に急かされ、富永らは居酒屋「じん八」へと入った。早々に冷えたビールがもたらされた。
「さあ、乾杯しようぜ!」
高々と掲げたグラスを持ち、田村が音頭をとる。
「乾杯!」
掲げ、一気に喉の奥に流し込む。
「うひゃっ、美味えな!」
富永が、ご機嫌な声を上げた。
「やっぱり、最初の一杯は最高だ!」
口の泡を拭いながら、坂口が同調した。
「極楽、極楽。至福の時だぜ。喉を潤す心地よさ。何ともいえんな。富永先輩、嬉しいですよ」
田村が能天気にからかった。
「おう、田村。何を、意味の分からんこと言ってんだ。さっきも言ったが、おだてたって、鼻血も出ねえからな!」
「まあまあ、先輩。そうカリカリしないで下さいよ。今日は楽しくやりましょう。それに、来月の山行計画を、坂口の方から説明させますから。なあ、そうだろう。そういう段取りになっているんだよな」
「おお、そうだった。うっかりしたぜ。任せておくんな、しかと説明させて頂きますよ」
坂口までもが、調子に乗っていた。
「しかし、お前ら。如何なってんだ。それにしても、訳が分からねえ。ええいっ、こうなりゃ、俺も羽目を外してやる。まともに付き合っていたら、頭がおかしくなっちまうからよ」
訝りつつも、富永が啖呵を切ったところで、三人の視線が合った。一斉に笑い声が沸き上がる。坂口が煙草を取り出し、二人に勧める。
「おお、悪いな。一本貰うよ」
坂口が煙草に火を点け、ライターを差し向ける。二人が顔を寄せて火を点け、大きく吸い込みくゆらせた。
「如何だ、来月の山行は。俺の方で考えたんだが、夜行日帰りで谷川っていうのは」
「ううん、いいんじゃねえか。手軽に行くには夜行日帰りがいい。まさか、一泊するとなると装備もいるし、宿代もかかる」
坂口の提案に、富永が了解した。
「俺もそれで賛成だ。紅葉の谷川か…、いいんじゃないか」
煙草をくゆらせ田村が思いを馳せた。
「さあ、行くところは決まった。後は日程だが、飲みながら決めようぜ」
「そうしよう、時間はたっぷりある。それに、今日は富永先輩の奢りだからよ」
「あっ、また言う。田村、お前もしつこいな。金なんかあるもんか、帰りの電車賃だって足りないんだから」
かこつけて富永が漏らすと、驚き返す。
「何っ、お前、ここの飲み代払わねえ魂胆か?」
「すまねえ、誰か立て替えてくれねえか。持ち合わせがないんだ。助けてくれ、後生だから」
「おいおい、冗談じゃねえぞ。本当かよ、坂口如何する。こいつの金欠なのは間違えねえ。メッカのコーヒー代も払えねえんだからよ」
「しかし、参ったな。俺だってそんなに持ってないし、田村、お前いくらあるんだ?」
「俺か、俺は参千二百円かな」
坂口が財布を取り出し、中を見て告げた。
「俺は、確か四千円持っていたな。ああ、そうか。ここへ来る時、電車賃を使ったから三千六百二十円だ。ところで、富永。お前、いくら持っているんだ?」
「俺か、俺はあと三百五十円しかない」
「ああん、何だって。富永、本当かよ。それっぽっちじゃ、家まで帰れねえじゃねえか。如何する心算なんだ!」
田村が声を荒げた。
「だから、如何しようか。田村君、如何すればよろしいでしょうか?」
「富永、何を馬鹿なこと言っている。如何にもならねえじゃねえか。坂口、如何する?」
「俺に振られたって、全部合わせていくらになる?ええと、俺の三千三百円と坂口の三千六百二十円、それに富永の三百五十円。締めて七千二百七十円だ。これから夫々の電車賃として計千二百円を差っ引くと、六千七十円が残る。今日の飲み代は六千円内だな」
「あの、坂口先輩、田村先輩、ご馳になります」
白々しく富永が頭を下げた。二人は一瞬ぽかんとした。すると、富永がぬけぬけと抜かす。
「冷えたビール、美味いですね。さあ、今日の使える金額も決まったことだし、ゆっくり山の話でもしながら飲みましょうや。ねえ、お二人さん」
「くそっ、また、こいつにやられたぞ!」
田村が地団駄踏み、さらに嘆く。
「如何せこんなことになるんだったら、おべっか使うんじゃなかった。損した、まったく損した」
すると、「参ったな、今日もまた富永にしてやられたか。しょうがねえ、今日の飲み代はこれしかないから、この範囲内でやらなきゃ。オーバーしたら大変だぞ」
坂口が大袈裟に吹いた。そんなことは意に返さず、「それじゃ、今一度乾杯しましょうか?」富永が調子づく。
促された二人は、しぶしぶ残り少ないジョッキーを掲げ、乾杯し飲み干した。すると、富永が遠慮がちに所望する。
「ビールのお替り、頼まねえか…?」
田村が、自棄気味に応じる。
「おお、そうするか。食い物を減らせば何とかなる。頼もうぜ」
「そうこなくっちゃ。おおいっ、店員さん。ビールのお替り頼みますよ!」
辺り構わず、大声で注文した。
「しかし、こいつにかかっちゃ、如何にもならん。何時もこんな調子だからな。俺もこいつみたいな性格になりてえもんだ。羨ましい限りだぜ。なあ、富永さんよ」
「如何致しまして。こんな性格で申し訳ない。これも持って産まれたもんだから、勘弁してちょうだい!」
田村の嘆きに、富永がとぼけた。
「ああ、こんなことでぼやいていては、辛気臭くなる。如何にもなりゃしねえ。こうなったら、すっぱり気持ちを切り換え、山の話でもするか」
「いいね、そうしよう。来月予定の谷川岳の話でもしようや」
田村の切り換えに、坂口が応じた。
「そうだ、それがいい。せっかく旨いビールを飲んでいるんだ。暗い気持ちになっては不味くなる。君たちには、気持ちを切り替えることが必要だ。ところで、来月の何日にする?」
富永の惚け声が飛んできた。
「まったく、懲りねえよな。図太い神経しているぜ。まあ、これがこいつのいいところでもあるがな」
諦め切ったように、田村が呟いた。まったくだとでも言いたげに、坂口が頷き聞き流す。
それから、三人の山談義が始まった。これから行く谷川岳や、今年の二月に入った厳冬の八ヶ岳の秘話。夏シーズンに挑戦してきた北アルプス立山・剣岳縦走と、次々に話題に上っていた。夢中になって話をする坂口らは、一つの大きな輪になり興が進む。そんな中で、限られた飲み代のことなどすっかり忘れられていた。
何時もの如く、酔いに任せて時間の過ぎるのを忘れ、山談義に花を咲かせる。いずれ彼らとて、学生時代に別れを告げるだろう。それまでの間、目一杯山岳に挑戦してゆくに違いない。卒業しても共に山に入ろうと約束するが、現実的には別れ離れになってしまうかもしれないのだ。
今の彼らにとり、先のことなど淡い約束でいい。とにかく今を謳歌し、来月入山する谷川岳山行に全精力を傾けることが、優先なのかもしれない。
ふと、坂口が呟く。
「それで、いいと思う…」
すると、富永が訝る。
「何だ、藪から棒にそんなこと言ってよ」
「いいや、何でもない。ちょっと俺らが卒業した後のことを考えてみて、そう思っただけだから」
「何、訳の分からねえこと言ってんだ。坂口よ!」
富永が、赤ら顔で訝った。
「そうだ、富永の言う通りだ。坂口、お前、熱でもあるんじゃねえのか?」
これまた、酔い目の田村も訝る。
「いいんだ、とにかく来月の谷川攻めのルート設定でもしようぜ。ぼやぼやしていると、直ぐに来月になっちまうからよ。おっと、肝心なことを決めていなかったぞ。来月の幾日にする?」
坂口が応じる
「おお、そうだった。何時にするか。今からなら、そうだな。月の半ばか下旬だな。それでないと、計画を充分練れんから。待てよ、谷川山行といっても、別に一の倉沢のロッククライミングでもないんだ。夜行日帰りの尾根歩きだぜ。まあ、計画はきちんとするけど、そう大袈裟に構えることもないと思うが」
「確かに、その通りだ。まあ、それでも今から準備なんかで、早くて来月中旬がいいんじゃないか?」
田村が了解すると、「おお、それでいい。それに決めようぜ」と、富永が先導した。
すると、田村が聞き及ぶ。
「そうだな、それじゃ。来月の十五日ということでいいな。それで、授業の方は大丈夫か?」
「ああ、気にするな」
坂口が応じ確認する。
「それじゃ、その日に決めよう。来月十五日で谷川岳山行を決定する。祈念して乾杯しよう。いいか、それじゃ、成功を祈願し、乾杯!」
一同が、酔った顔で、グラスを高々と掲げた。
そして、抜けぬけと富永が乞う。
「ぷはっ!いい気持ちだ。これで来月の山行は決まった。精々バイトして資金を稼がにゃならんぞ。何せ懐がすっからかんなんでよ。さっきも皆さんにお願いしたんですが。今日のところは是非とも、この哀れな私目に甚大なるカンパをお願いします。頂けなければ帰りの電車賃がなく、路頭に迷う羽目になりますので。何としても宜しくお願い致します」
すると坂口も田村も、またかと言う顔で白々しく受け流していた。
「ところでよ、これからも、いや、大学を卒業しても、俺らは共に山行は続けようじゃないか」と田村が、赤ら顔で提案した。
それに坂口が酔い顔で応える。
「決まってら。今まで一緒に入ってきたんだ。いろんなことがあった。危険な目にも遭ったし、楽しかったこと、感動したことなど数限りない。それこそ、苦楽を共にしてきたんだ。たかが卒業という節目を迎えるからと、俺ら仲間が空中分解するわけねえだろ。なあ、田村、坂口よ!」
富永が、酔い目で訴えた。
「ああ、そんなことは絶対ない。そうだな、皆!」
「おお、決まってら!」
坂口の決意に、三人ともども気勢を上げた。場が盛り上がった。自称山男たちは酔いが回り、どのようにして帰宅したか覚えていなかった。と言うより、結局は駅のベンチで夜を明かしたことが、翌朝目覚めた時に気がついた。
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