第2話 己らの過去に遡る

うだるような暑さも峠を越し「長月」ともなると、早秋の助走に入る山肌に、朝晩秋立つ香りが漂い始める。

山男たちにとって、その芳しい香風が、突き抜ける空を一連の雲が漂うように鼻腔をくすぐる。そして、心の奥で鼓動の高まりを誘い、山岳への欲望を掻き立て、胸を揺するものとなる。

すると、何事にも手がつかなくなり、思うことは山行ばかりが頭脳を支配し、思考のすべてがそちらに傾く。たとえ己らにとり、学生生活で重要な就活という難関に差し掛かろうと、容易に修正できずにいる。それとて、ジレンマがないわけではない。それでも、短くなった煙草をくゆらせ、むず痒い足を掻きながら、現実から逃避するように、ことさら山への思いを強くしていた。

三人の仲間が、大した用事もないのに、何かにこじつけては集まり、纏まりのない山行談義に花を咲かせる。他に熱を入れて話すことがないから、それも長時間取り止めなく続く。いや、本音で言えば、単に時間潰しで続けているだけかもしれない。

何時もそうだ。

まずは、田村が能書きを垂れる。

「山に入ったら、下界で何をやっていようと関係ないぞ。だから富永、俺らが学生だということを忘れちゃえよ。学生という特権意識を持っちゃならねえ。だって、入山したら誰もが平等だからな」

訳の分からぬ講釈に、「そうだよな。そりゃ社会人だって同じことが言えるわな。俺らが学生だからといって、分け隔てなく対等に扱って貰うようにな」

これまた、富永が意味不明に返した。すると坂口が、受け流しつつ話題を変える。

「まあ、三学年ともなれば必須科目だけ出席し、他の科目はペーパー出しとけば、何とか単位は取れる」

「そりゃそうだ。俺らは授業放ったらかしで山に入っているが、他の奴らはバイトに精出しているからよ。けどよ、俺らだって山へ入るにゃ金が必要だぜ。せっせと稼せがにゃならん。それじゃねえと、金欠病で山に行けなくなっちゃうからよ」

田村が応じた。

居酒屋「赤のれん」のテーブル席に陣取り、山行談義に花を咲かせ、酒勢も手伝ってか止めどなく続いていた。学生とは言え彼らにとっての最も大きな関心事は、何はさておき山岳への思いであろうが、結局は終電車に間に合ったのか否かは、記憶から飛んでいたので分からない。

それから数日が経った。授業開始の前に、教室での席に座り学生仲間数人と雑談が続く。

「俺なんぞ、アルバイトが忙しくてな。昨日なんか授業さぼって、夜中まで働いたんでくたくただよ。おかげで眠くてしょうがない。本当は授業をさぼりたかったんだけど、今日は出席しておかんと単位が取れないから仕方なく出てきたんだ」

 中村が眠そうに打ち明けると、坂口も似たり寄ったりの返事をする。

「いや、俺だってバイトで忙しくてな。この授業も専科科目だろ。お前とおんなじだよ」

「そうかい。代弁できれば寝ていられるのに、それができねえ。まったく嫌になるぜ」

机に顔を伏せる中村に、尤もらしく坂口が告げる。

「それにしても一学年や二学年と違って、俺らみたいに三学年ともなると授業日数が減って、学生生活も時間にゆとりが出来る。バイトするのも、実社会での研修を兼ねるというところか。いずれ社会人になる準備活動と位置づけてな。そのため俺らは、積極的にそのバイトと言う社会活動に参加しているのさ」

能書きを、格好づけて言っているが、三学年からゼミという自由研究が始まり、論文の作成と提出が求められる。それでも現実は必修科目が減り、暇をもてあましているのが実情なのだ。

ともかく二人とも、眠気を押さえどうにか授業を受けた。周りの学生らにしても、授業態度をみれば似たり寄ったりの状況だった。

そこで、彼ら学生の受ける授業だが、一週間の時間割りにしても、授業時間も曜日によっては、午前中一時限とか、午後二時限の歯抜け状態になることも稀ではない。更に、出席日数の単位をクリアーしていれば、授業をさぼることさえあるのだ。

従って、学生はクラブ活動と称して部室に集まり、時間潰しの談義に現を抜かす。それさえ、多くの時間は不必要だ。そうなれば、自ずと遊ぶための資金稼ぎに精を出す。

ある日の、一時限目の授業前のことである。やはり始まる前の教室で立ち話が聞こえてきた。

「おい、中村。今日の二時限目の山田教授、来ないんだって。広報掲示板に貼り紙があったって、上田が言っていたぞ。俺は見ていないが、さっき教室に行ったら、坂口にそんなこと言われたんだ。おかげで時間が空いちまったよ。如何しようかな。急に休講になると、次の授業まで空いてしまうからな」

田村がぼやくと、富永が困ったように愚痴る。

「ええっ、本当かよ。参ったな。そんなこと、出来れば一週間前に教えて欲しいよ。そうすれば、こんな無駄なことしなくてすむのに。ちぇっ、さえねえや。まったく、バイトでもしていれば、その分稼げるのによ」

どちらが大切なのか取り違えているが、ともかく、大方の学生は時間の許す限りアルバイトに精を出す。

「そりゃ、俺らだっておんなじだ。まあ、他の学生は遊ぶ金を稼ごうとするが、俺らは違うぜ。

「なにっ?何に使うかって」

「そりゃ決まっているだろ、山に入るための軍資金だ」

さして違いはないが、田村が胸を張った。すると、富永が口を尖らす。

「なにっ?」口を尖らせ、「お前らだって遊ぶ金じゃねえかって?冗談言うなよ。お前らみたいに、女の子の尻を追い回すような、下賎な金じゃねえや!」

ことさら違いを誇示するのか、さらに続ける。

「俺らはな。同じバイトでも、そんなことのために稼いでいるわけじゃねえ。山岳登山という高尚な目的のためにやっているんだ。同類に扱われちゃ迷惑千万だ!」

すると、八の字眉毛で中村が揶揄する。

「そんなもんか、登山というのはよ。俺なんか同じ登るんでも、ベッドの上で小高い丘ぐらいなもんだからな」

聞き及ぶ坂口が目を吊り上げる。

「何、馬鹿なこと言っている」

「まったく、お前らみたいな下賎な奴と話していたら、俺らの清い目的が汚れるわ。いい加減にしろ!」

どちらにしても、三学年の学生たちは虫食いの時間割りに暇をもてあます。当日に臨時休講ともなれば、更に暇な時間が増すのだ。

こんな時、彼らは。飛び時間割りの授業の合間や、アルバイト勤務までの時間繋ぎは、如何しているのかといえば。そんな時過ごす場所が、行きつけの喫茶店だ。馴染みの溜まり場となる喫茶店は、大抵大学の近くにある。我らの仲間も、結局はそこに入り浸る。

JR総武線市川駅西口のロータリーに面する喫茶店「メッカ」が、何時もの溜まり場だ。ここに来れば誰かがいる。勿論、山仲間だけではない。クラブ仲間もいれば、同じクラスの顔見知りもいる。要は誰かがたむろしている。

従って、時間を潰すには格好の場所なのだ。その辺、ここのマスターは心得ている。と言うか、学生の溜まり場になることが、まんざらでもなさそうだ。学生相手では商売として不向きだが、マスターの人柄が、そんな儲からぬ学生を受け入れている。

それに甘えて、学生たちは一杯のコーヒーで長居する。勿論、昼飯を挟めばランチを食うが機会は少ない。圧倒的にコーヒーで粘るのだ。滞留時間は平均して二、三時間はざらだ。長い時は半日いる奴もいる。それでもマスターは嫌な顔一つせず、何時もカウンター越しに、にこやかな笑顔で包み込んでいる。だが、たいがい聞いているだけで話には入らない。けれど、話し掛ければ返事をくれる。このマスターは、昔、学生の頃、やはり山好きで、かなり入山していたらしい。我らが登山の計画で参考意見を聞くと、これま適切なアドバイスが貰える。だから非常に重宝している。

それはさておき、今日もまた暇を持て余し、三人の山好き学生がこのメッカにたむろし、山行の話で盛り上がる。

一息入れて始まる。

「まあ、この話はこれくらいにして、本題に入ろうか」

坂口が、二人の顔を見て告げた。すると、田村がぼやく。

「俺はすでに、その病気になっている。どこかいいバイト先ないかな。稼げるなら何でもやるからよ。それじゃねえと、山へ行く電車賃も出せねえぜ」

「何、そんな金もねえんか。おいおい、お前が行かなきゃ、そりゃ困るぜ。けど、急に言われたって、そうあてなんかあるものか」

弱り顔で坂口が応えた。すると、おもむろに富永が口を開く。

「そうだな、夜のバイトなら口利いてやってもいいが、如何だい田村君?」

「ええ、夜か。それって、どんな仕事だ?」

 田村が応じ、富永に質問する。

「ううん、まあ。キャバレーの呼び込みなんだけど…」

「何だ、そんな仕事か。富永の口利きは、何時もそんなんだ。他にまともな先はねえのか?」

歯切れの悪い富永を貶す。

「何、言っている。お前に職業選択の自由があるのか。ひっ迫しているんだろ!」

「まあな。でも、そういう仕事は性に合わねえからな…」

「そんな贅沢言うなら、俺の手に負えねえ。それだったら自分で探したらいい。人に頼らねえでよ」

「くそっ、仕方ねえ。自分で探すか」

田村が諦め顔で返した。坂口が矛先を変える。

「何だか、話しが脱線したみたいだな」

「ええ、そうだったっけ?何の話しをしていたんだか」

富永が惚けた。

「そう、そう。つい金欠病の話が出たものだから、そっちの方に行っちまったんだ」

坂口が話を巻き戻す。

「確かに山に入ったら、学生であろうとなかろうと関係ないわな。まあ、シーズンによって多少の違いがあっても、入山時の心構えやコースと時間取り、それに気象状況の把握。どれをとっても同じだが、時間取りには多少違いがあるな」

富永が応じる。

「おお、まったくだ。特に冬山の場合の危険度に、学生割引はねえからよ。ただ、大きな差は懐具合かな。それによって、山に入る時の軍資金の使い方が違うことだ。その点、社会人はいいよな。だいたい俺らは行きも帰りも鈍行がほとんどだけど、彼らは急行とか座席指定を利用するもんな。これなんか、真似出来ない芸当だぜ」

口惜しそうに羨ましがった。田村が同調する。

「そうだよな。そこが、決定的な違いだ。俺らも三学年だ。学生のうちは我慢するしかねえが、卒業して社会人になれば、精々贅沢させて貰いますよ」

「そうだ、それまで我慢するしかないね」

田村の願望に坂口が相槌を打った。すると、「お前らとは違う」と言う顔付きで、富永が得意気に鼻をつんと上げる。

「そうか、それは気の毒だな。俺なんか、その点懐には余裕がある。本来パーティーを組み入山する時は、お前らと行動を同じにしなくってもいいんだ。現地で落ち合えばよ。急行の指定席をとってゆっくり行ってもな。まあ、それじゃお前らが気の毒だと思い、鈍行で一緒に行ってやってんだ。その辺、俺の心意気を察して感謝して貰わんとな」

富永が吹聴すると、呆れ顔で田村が吠える。

「何、阿呆なこと抜かす。日頃の行いを見ていると、懐に余裕があるようには見えんぞ。何時もぴいぴいしているくせに。そうだ、この前。飯食う金がねえから貸してくれと言ったのは、何処の誰だっけな?」

すると、富永が屁理屈をこねる。

「いや、あんときゃ、確かに金がなかった。あれはたまたま持ち合わせがなかっただけだ」

すかさず、田村が畳み掛ける。

「そうかい。忘れたわけじゃねえよな。この前の昼飯代だけじゃないぜ。そうだろ、坂口。お前、先日の飲み代立て替えてやったんだよな。あれ、もう返して貰ったのか?」

「おお、そうだ。忘れていた。富永、何時返してくれるんだ?」

すると、富永がすまなそうに言い訳する

「あっ、それは、今はちょっと勘弁してくれ。必ず返すから。いや、なに。月末には金が入るから、それまで待ってくれ」

ここぞとばかりに、田村が貶す。

「ほらこれだ。お前の懐なんか、何時だって隙間風吹いているくせに。見栄ばかり張りやがって、この阿呆!」

「悪かった。つい格好付けたくて、虚勢を張ってしまった。許してくれ」

富永が、すまなそうに頭を下げた。

「まあまあ、それくらいにしておけや、田村。だいたい富永の言うことをまともに聞いていたら、こっちがおかしくなる。だから、奴の言うことなど程々に聞き流しておけばいい」

坂口が宥めた。

「確かにその通りだ。本気になって相手したら、馬鹿をみるからよ。危うく乗せられるところだったぞ」

煙草の灰を、灰皿に落としつつ己を戒めた。そんな田村の反省を意にも返さず、富永が平然と煙草をくゆらす。その様を口惜しがる。

「しかし、富永はいいよな。他の奴に気兼ねなく居られるんだから、羨ましい限りだ」

すると、嘘ぶる。

「いいや、俺だって。それなりに悩みがあるんだ。ただ、それを態度に表さず、心の奥にしまっている。それを分かってくれねえと困るぜ」

しゃあしゃあと応える彼の態度に、田村が剥きになる。

「何、言ってやがる。悩みなんかねえような面しやがってよ。それじゃ、あるんだったら、どんな悩みか言ってみろ!」

剥きになる顔付きとなった。

「話してもいいが。まじで聞いてくれるのか?」

神妙な顔で返す。

「ああ、聞いてやら。如何せ取るに足らんことだろ。富永のこった、女の尻を追うぐらいのものだろうて」

田村が軽口を叩き揶揄した。それでも平気で確認する。

「それじゃ話すが、いいか?」

「ああ、お前の言うことなど、今さら驚きはしないぜ!」

田村が小馬鹿にするが、意に返さず話し出す。

「それじゃ言うが、田村。じつはここのコーヒー代、申し訳ないが立て替えてくれないか。飲んだのはいいが、持ち合わせがなく、如何しようかと悩んでいたところなんだ。親切に悩みを聞いてくれると言うから、思い切って打ち明けた」

富永のあまりの物言いに、一瞬あっけに取られ、コーヒーカップを持つ手が止まる。

「何っ、コーヒー代がないから、代わりに払えだと。ふざけんじゃねえよ!」

さらに興奮し、「それが悩み事か。馬鹿野郎、深刻な悩みでもあるのかと、マジで聞いてやったのに、寄りにもよってコーヒー代を立て替えろとは、何ごとだ。まったく馬鹿らしくて聞いていられん。ああ、阿呆臭っ!」

呆れ顔になった。

「ほれみな、今言ったばかりだろ。奴の話をまともに聞いちゃいけねえって。真に受けて聞くから、そういうことになるんだ。分かったか、田村。富永のすっ呆けた顔を見れば、それくらい分かるだろうが」

坂口がこれ見よがしに窘めた。そして煙草に火を点け、くゆらせながら諭す。

「富永という男は、こういう奴だ。何時も自己中心に考えるが、決して根っから腐っているわけじゃなく、根が楽天的なんだ。今まで散々付き合ってきて、それくらい分かるだろう。要は相手のことなど考えず、図々しいことを平気で言う奴さ」

「ううん、確かにそうだけれどよ…」

面食らう田村に坂口が説く。

「だから、これからはこいつの言うことを、話し半分で聞いていればいい。そうすりゃ腹が立つのも半分ですむ」

「そうだな。これからはそうするよ。もう懲り懲りだ。こいつの話をマジに受けると、頭に血が上って身体に悪いからな」

田村が己を戒めた。すると坂口がぼやく。

「何だか、話しがそれちまったな。ええと、何を話していたんだっけ。そうだよ、富永がろくなこと言わねえから、脇道へ反れてしまったんだ」

「ううん、何だっけかな。おお、そうだ。確か、学生と社会人との違いを話していたんだ。待てよ、何でそんな話になったんだ?」

田村が訝ると、富永が告げる。

「山に入った時には、学生も社会人も平等だということだろ」

「ああ、そうだった。確かに、その話だ!」

坂口が思い出し、声を上げた。

「それにしても、富永は変なところで記憶がすげえな。お前のことで話が引っ掻き回されているのに、どんな話をしていたか覚えているんだからよ」

「まあな、お前らと違って、表向きにゃ阿呆臭く振舞うが、すべての行動を、沈着冷静に見ているのさ」

富永が屈託なく胸を張った。

「またこれだ。直ぐに頭に乗るからよ。やっぱり、こいつの頭は根本的に単純なんだ。おだてると、己の失態など直ぐに端っこに追いやり、まったく他人ごとのように、平然としているんだから。富永には、何を言っても無駄だ。すべて己の都合の良いように解釈されるからよ」

田村が半ば諦め顔でぼやいた。

「そうだよな。これがこいつの短所であり、且つ、長所かも知れんぞ。まあ、長く付き合っているから理解できるが、初対面では呆れ果てられるんじゃねえか?」

坂口が付け加えた。

「あっ、そうそう。また脱線するところだったぜ。それにしても、さっきの話じゃねえが、俺らからみれば社会人はいいよな。先立つものが定期的に入ってくるから。あれじゃ俺らみてえに夜行の鈍行で、座席の下に潜り込まなくても、指定席でゆっくり座って行けるものな」

田村が羨ましげにほざいた。すると、富永が講釈する。

「だけど、俺らには。金はないが自由があるぞ。それに指定席じゃ味わえねえ良さがある。座席下は窮屈だが、これぞ入山時の醍醐味というものだ。この心持は金じゃ買えん。それに、そこを確保するために早く新宿駅へ行き、待ち時間山の話で盛り上がるのも、自由という時間があればこそだ」

「確かに、そうだ。富永、お前もたまにはいいこと言うな」

愚痴る田村が感心した。

「そうだよな。今の俺らには、社会人には得られぬ体験が出来るんだ。それも学生でいる間だけにな」

更に加え、「けどよ、俺らだっていずれ社会人になるわけだから、今のうちにこの醍醐味を充分味わっておこうぜ」

坂口が締めくくった。

「それで、如何なんだ?」

富永が、意味不明に尋ねた。

「何だ、富永。何が言いたい?」

すると、田村が首をすくめる。

「おっと、待てよ。またお前の悪い癖が出て来たな。危ねえ、危ねえ。また、罠に嵌るところだったぞ!」

「いや、さっきの頼みの様に、金貸してくれとは言わん」

「それじゃ、何を企んでいる」

「いや、俺の言いたいのは、さっき、坂口が言ったことだ」

「何んだ、坂口が言ったことって。俺らもいずれ卒業するということか?」

「ああ、そうだ。その後のことが心配でな」

「何が心配なんだ。ああ、そうか。お前卒業しても、就職先がねえと言うことか。そうだよな。今までまともな就活してこなかったからな。それは心配だろう。分かるよ」

「いいや、そうじゃない!」

「それじゃ、一体何なんだよ」

「それはな、俺ら学生のうちは、まだ一緒にいられるからいいよ。けど卒業したら、ばらばらになるだろ。そしたら、お前らと山に入れなくなると思ってな。それが悩みの種なんだ」

「ううん、確かに卒業したら、しょっちゅう会うわけにはいかなくなる。それに、休みだって簡単に取れないだろうな」

富永とのやり取りで、眉間に皺を寄せ田村が応じた。

「けど、夏休みとか、正月休みなら比較的一緒に取れるんじゃないか。特に、正月休みはよ」

坂口が口を挟んだ。

「そうだ、正月は同時に取れる。だが、それ故大勢が一斉に入山するから、山小屋が混むのもそのせいだぞ」

田村が説くと、坂口が応じる。

「ああ、そういうことになる。同時に一緒に三、四日連続して休めるのは、そういう時じゃないと難しいからな」

「やっぱり社会人になると、よほど計画的にやらんと、一緒に行く機会が極端に減ってしまうぞ」

心配する田村に、坂口が返す。

「まあ、先のことだが、社会に出ても一緒に行きてえもんな。だから夏冬シーズンは、出来るだけ行けるように綿密に調整しようじゃねえか」

「そうだよな。俺ら気心知れた仲間だ。これからも仲良くやろうぜ。社会人になってもな」

田村が気持ちを告げ、更に問い直す。

「しかし、俺らこれから如何なるのかな?」

「何、如何なるかって。如何いうことだ?」

「いや、今のところは、一緒に入山しているからいいけど、就職したら、会社の都合でやっぱり難しくなるのかな…」

「そうだな…、まあ、先のことは分からん。なるようにしかならんで。だから、今から心配してもしょうがない。臨機応変という言葉があるだろう。その時々によって都合付ければいいんだ。夜行日帰りでも、二、三泊入山する場合でもだ。何とか調整して行こうぜ。時間がなければ、鈍行でなく急行の指定席を使えばいい」

「そうだよ。今は金欠で、時間があるから鈍行で行っているけど、社会人になれば時間的余裕がなくなるが、若干金に余裕も出来る。それだったら、その方法で行けばいいんだ」と田村。

結局、軽んじた手段に落ち着いた。富永が頷く。

「そうだ、そうすれば今まで通り三人で八ツ岳や剣岳でも、槍だって行けるよ」

「ああ、そういうことだ。それより、今度の正月休みは如何する。どこか入るか?」

坂口が返し尋ねると、田村の顔が曇る。

「駄目だ。正月休みは、どこも混んでいてよ。彼らには限られた長期間の休みだぜ、ここのところは、社会人に譲ろうじゃないか。他の時期じゃ、冬山のよさを味わう日程が取れんだろうからな」

すると、富永が真顔になる。

「俺らはその後ゆっくりと入り、楽しもうじゃねえか。先輩たちに敬意を払って、彼らが楽しんだあと堪能すればいい。いずれ俺らだって、そうなるんだからよ」

坂口が同調する。

「そうだ、その通りだ。正月休みなんぞに入るより、雪が一番安定している二月の方が、冬山の良さが味わえるしな。それじゃまた、冬山に備えて近々、近場に行くか。体力強化のためによ」

「ああ、そうしようぜ。とりあえず、丹沢の馬鹿尾根にでも行き訓練するか」

田村が追従した。

「ところでよ。今、何時だ。俺もこんなところで、何時までものんびりしていられねえんだよな」

富永がマジ顔で言うと、田村が問う。

「何だ、バイトか?」

「いいや、そうじゃねえ。午後四時限目の倫理学の授業を受けにゃならんのだ。会計学論は代返利くが、こちらの方は駄目で、出席せんと単位が取れないから」

すると、カウンター奥のマスターから「二時、過ぎたよ」と告げられた。

「ええっ、もうそんな時間かよ。こりゃ大変だ。授業が始まるまであと一〇分しかねえぞ。こんなところで、油売っている場合じゃねえ」

口では言うが、焦る様子もなく、富永がメッカを出て行った。

「しかし、あいつものんびりしているな。少しぐらい時間を気にすればいいのによ。何時もこれだ」

田村がなじると、坂口が応じる。

「何時ものことだ。奴を窘めたところで直りゃせん。別に授業だけじゃない。何時も待ち合わせ時間を守った試しがねえ。だいいち遅れたところで、反省する気持ちなど持ち合わせておらん」

さもありなんと、田村が頷く。

「そりゃそうだ。ことさら騒ぎ立てすることもねえな」

そこで気づいたのか、さらにすっとんきょな声を上げる。

「あれっ、あの野郎。コーヒー代払わねえで、とぼけ顔して行っちまいやがら!」

「おお、そう言えば。この前もそうだった。しょうがねえ野郎だぜ。マスターすまねえな」

申し訳なさそうに坂口が詫びた。

「いいや、気にしないよ。ある時に払ってくれればいい」

「マスター、そんなこと言うからつけ上がるんだ。ちょっとはきつく言って下さいよ。それでないと、付け上がるばかりだから」

「ああ、分かったよ。親友がそう言うんだったら、今度来たとき言っておくよ」

「ほら、またこれだ。マスターは何時も甘すぎる」

「はいはい、分かったよ」

坂口の注意を、笑みを湛えながら受け流していた。

諦め顔で、坂口が腕時計を見る。

「さあ、俺もそろそろ出掛けるか。これから資金稼ぎのバイトに行かにゃならんからな」

「そうか、それじゃ。今日は授業もないし、俺もそろそろ家に帰るとするか」

二人が温めた席を立つ。

「それじゃ、マスター帰るから」

コーヒー代を払いながら、田村が告げた。

「そうかい。精々気張りな」

マスターの笑みを湛える言葉に送られ、店を後にした。


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