そこに、山があるから
高山長治
第1話 甦る厳冬期登山
小柄できゃしゃな田村は、季節の変わり目で、つい油断し風邪をひき3日間ほど寝込んだ。シニアになっても節操なく深酒し、着の身着のままで床についたのがいけなかったようだ。
三十八度近く熱を出すとは情けないが、三日目に咳き込み悪寒のする床で、夢現に四十年も前の氷雪の舞う岩場に、立ち向かう己に戻っていた。
ひどく息が荒れていた。蒸気機関車の吐く汽笛のように、喉仏がひゅうひゅうと悲鳴を上げる。
登山靴の底から這い上がる風雪が、顔面めがげ射られる矢の如くちくちくと突き刺さってくる。強風に浮き上がりそうになる身体をピッケルで支え、さらにアイゼンの爪を凍岩肌に食い込ませ、眼前にそそり立つ岩稜を睨み、ゆっくりと前進する。
吐く息が氷雪と化し、目出帽子の隙間に入り込んでは、睫毛に付着し視界を遮る。手袋で無造作に払うが、妨げられる視界は容易に晴れない。
こんな氷雪との戦いが、どれだけ続いただろう。中岳のコルを這い登り悪戦苦闘の末、ようやく阿弥陀岳に取り付く尾根基点へと辿り着いた。足場を確保し一息入れるが、間段なく吹き付ける風雪は、止まることを知らない。手頃な岩石に腰を下ろし、荒れた息を整えると、ようやくここまで登って来たことを実感する。更に顔を上げ、急勾配の阿弥陀岳を見上げれば、屈強の岩盤に武者震いするほど気持ちが高ぶってきた。
「よっしゃ!」と気合を入れ、アイゼンの緩みを直し、ピッケルを握り締めて再び歩み始める。いよいよと、標高二千八百五メートルの山頂を目指して登り出した。斜め横から吹き上げていた風雪が、今度は背後から後押しするようになった。まるで「頑張れ!」と励まされているようだ。ピッケルと両手を使い、岩肌をよじ登るように高度を稼ぐ。再び息が荒れてきた。
すると、岩稜の尾根道を前進してきた時と同様に、息がひゅうひゅうと啼き出す。隊列を組む三人の山男の息音がリズミカルに続く。阿弥陀岳の頂は頭上はるか先だ。ゆっくりと歩を稼ぎ、必死に登り攻める。これこそが、厳冬の八ヶ岳連山縦走登山だ。けれど、この阿弥陀岳征服は序章に過ぎない。主峰の赤岳が、次に鎮座しているし、さらに横岳、硫黄岳へと続くからだ。
我らは、この連なる岩稜の山々を縦走すべく、果敢に挑戦しているのだ。
まるで、鋭岩肌を叩くピッケル音と、氷雪の岩稜を噛むアイゼンの爪音が、競い合い鼓舞しているようだ。そして、そこに風雪の啼く音が共鳴し合う。
この日のために、周到な準備をしてきた。そして今、躍動する俺らがいる。荒い息がその証だろう。中岳を経由し、一時間ほどの苦闘で攻め登った阿弥陀岳山頂から望む主峰赤岳は圧巻だ。
八ヶ岳連峰に君臨する、標高二千八百九十九メートルの堂々たる姿を我らに誇示し、凛々しいその勇姿は、果敢に攻める者たちを魅了する。
真っ青な天空に向いそそり立ち、我らを歓迎するように、威風を放っているではないか。何と素晴らしい光景だろう。打ち震える胸と、目に焼きつくこの有体は、おそらく一生の宝物になるに違いない。苦しさの中から得るこの感動は、生涯心の襞に刻まれ永遠に残るのだ。
突風の吹きすさぶ山頂で、やっと点けた煙草をくゆらせ、ひと時の暖を取る。そして、一息入れたところで、瘦せっぽの坂口が新たな挑みの激を飛ばす。
「さあっ、出発するか。いよいよ、主峰赤岳に挑戦するぞ。気張って行こうぜ!」
「おおっ!」
きゃしゃな田村と小太りの富永の力強い返事が響くと、身体がじんと燃えてきた。
ピッケルを握る手に力を込め、アイゼンの爪を氷雪の岩肌に突き立て、紺碧の空天にそそり立つ雄大な赤岳を睨みつけた。そこでザックからカメラを取り出し、証の写真を各人が撮りあう。そして、赤岳を制覇するため阿弥陀岳の山頂を後にし、起点となる中岳山頂まで戻った。
そこで目が覚める。すると、寝汗をびっしょりかいたせいか熱が下がっていた。何故そんな夢を見たかの定かでないが、若き日の悪戦苦闘する冬季八ヶ岳連峰縦走に挑戦している正夢である。
その頃を、振り返ってみよう。
暫らくぶりに、昔の山男仲間が酒宴の席に集う。
酒宴といっても堅苦しいものではない。ただ格好付けて言っているだけで、要はそこいらにある居酒屋で、肴を突き安酒を飲み、馬鹿話をする集まりだ。
酒を酌み交わすうち、思い出の域に達した出来事ばかりが口を突く。酔いが回れば、話題は何時も決まっている。若き頃の山行談義だ。あの頃は、己が山男だと自負し気取っていたが、今やその面影など微塵もない。けれど、気持ちでは誰にも負けぬほど、山行に愛しさを抱いている。我らにしてみれば、これこそが昔も今も変わらぬ自慢話なのである。
だから、杵柄を取った三人の自称山男たちの世間話が一巡すれば、決まって昔登った幾多の山行談義へと収斂されてゆく。酒宴の席には、それを目的に集まり来たようなものだ。
この方、こんなことが幾年続いているだろうか。何時になっても、会う度に飽きることなく繰り返される。如何やら我らにとって、唯一共通する宝物に違いない。
結局、今でもそんな飲み会が、飽きもせず続いているからだ。
染み入るような酒を喉奥に流し込み、ふうっと息をつく。程よい酔いの中で、思い起していた。
過ぎし日の山行の情景が鮮明に甦る。時間を遡れば、その記憶が目くるめく走馬灯のように呼び戻された。俺自身、白髪の混じる歳になり、遥か彼方の出来事が、仲間の切り出す一言で、瞬時に花開いてゆく。
「しかし、あん時はよかったな…」
昔はやせっぽだったが、今は若干腹が出ている坂口が懐かしむと、田村も思い巡らす。
「ああ、あん時はきつかったけどな。でも、その分素晴らしい冬山を堪能させて貰ったじゃねえか。阿弥陀岳から視る赤岳は、言葉では言い表せないほど感動的だったものな」
さらに、坂口が目を細めて、当時の光景を再現させる。
「ううん、確かに絶景と言っていい。今でも鮮明に甦るからな。この手や顔に、風雪の突き刺さる感じが消えていないぜ」
「まったくだ。俺だって、これだけ年月が経っても、昨日とはいわんが鮮やかに蘇えるもんな。懐かしい限りだ」
さらに話が、冬山から夏山山行に移る。
「それとよ、冬場だけじゃないぜ。夏真っ盛りの頃に、丹沢山の二股沢の入口にテントを張り、そこを基点に勘七沢や源次郎沢の遡行を連ちゃんしたっけな。しかし、よくそんなことが出来たもんだと、改めて感心するよ。急流の滝を逆登って行くんだから。まあ、無謀と言えばいえるが。でも、あの頃は若さが勝っていたんだ」
「そうだ、その通りだ。若さゆえの所業と言っていい。それにしても、若い頃の勲章だぜ。今じゃ、沢に入り天然のクーラーを味わいてえと思っても出来やせん。気持ちは挑戦したいが、身体がついていかねえから」と小太りの富永が口を挟むと、坂口が貶す。
「当たり前だ。この歳になって、無理に決まってら。でも、俺らには経験という財産がある。そうだろ、幾多の山を登り結構無茶をし、謳歌してきたが、反面危ない目にも遭ったな。そうそう、あの冬山山行のこと覚えているか。例の八ヶ岳縦走をやった時だ。えらい目に遭ったからな」
すると、眼鏡のづれを直しつつ、田村が遠目になり思い出す。
「おお、覚えている。忘れるわけねえだろ。お前、鼻の頭が凍傷になりかけたんだよな」
「そうだ。最初はすごく痛くなり、そのうち感覚がなくなっていた。それにしても、凍傷にならず助かったよ。けど今考えると、凍傷になっていたらえらいこっちゃで。鼻がないなんて、冗談では済まされんからな。それに、富永が尾根伝いに歩いていた時、突風に煽られバランスを崩し、危なく滑落するところだった。お前も命拾いをしたもんだ」
「ああ、あんときゃ肝を冷やしたぜ。バランスを崩し落ちかけた時、瞬時にピッケルで滑落を止められたから、助かったんだ」
富永が頷きつつほっとする顔になると、坂口が話題を変える。
「それはそうと、夏山も記憶にあるぞ。例の立山・剣岳縦走もよかった。あの絶景は、決して忘れない。剣御前から観た剣岳の眼前に迫り来る垂直の岩壁が蘇えってくるぜ」
田村が感嘆の表情で告げる。
「ああ、俺も脳裏に焼きついている。それと、天幕で野営し、夜中に牛蛙の鳴き声を聞いた時にはびっくりした。まさか、あれが雷鳥の鳴き声だったとはな」
さらに、坂口が続ける。
「それによ、夏真っ盛りの八月に、登り一辺倒の丹沢山の馬鹿尾根ピストン登山をやったっけ。水を一滴も飲まず下山して、麓の山小屋で冷えたビールを一気飲みしたら、胃がきゅっと縮み上がった。今思えば、随分と無茶をしたもんだ」
「ううん、あの頃は無謀さを、あまり意識しなかったことも事実だ。危険を顧みず、若さで突っ走っていたからよ」
「まあ、この歳じゃ。当時のような、そんな無茶はもうできん。やっぱり若さっていいな。ああ、あの頃が懐かしい…」
無茶クチャだったという顔つきで思い浮かべると、マジ顔で富永が応じる。
「俺だって、同じ気持ちだ…。しかし今になっては、昔の無茶な登山経験は、確かに俺らには財産かも知れねえが、金にはならんな」
坂口が、当然だという言い方で告げる。
「何、馬鹿なことを言っている。当たり前だろ、なるわけねえじゃねえか。それでも大切なんだ。他の奴らには持ち得ない経験だからな」
さらに尤もだという顔で、「そりゃそうだ。この歳になっちゃ、気持ちの上で元気でも、ハードな山行は無理だからな。でもよ、もし可能なら、もう一度チャレンジしてみたいな」と願望を言うと、田村が同調する。
「そりゃ、行きてえよ」
すると、坂口が提案する。
「それなら今度、近場にでも行ってみようか?」
「いいね、直ぐにでも計画を立てようじゃないか」と、田村が乗ってくるが、坂口が抑える。
「でも、程々にしか出来ないぞ」
「ああ、分かってら」
酒を酌み交わしながら、三人の山仲間は遠く頂を覗うような眼差しとなり、タイムスリップするが如く、時空を飛び越えていた。その目の行く先は、まさしく学生時代の若き頃の日々だ。片手にグラスを持ち、もう片方で煙草をくゆらせ、視線が遥か彼方を覗う先に、凛々しいばかりの登山姿の己がいた。
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