真夏の雪の作りかた

小ライス

1

 あまり知られていないことだが、天国にはファミルンが建っている。あのクリーム色の壁も安っぽいメロンソーダも限定チーズトマト冷麺もそのままに、今日も電気が切れそうな看板で冬の夜道を照らしている。

 昔ながらのメニューと多めの閑古鳥が魅力のファミルンは、その魅力ゆえ昨年末あたしたちの街から撤退を余儀なくされた。でも大丈夫。ファミルンはあの世に移転しただけだ。天国店は年中無休24時間営業。フユカが言っていたからそうなのだ。あいつはあたしよりあの世に詳しい。

 試合に負けた日フユカは必ずカルピスとメロンソーダと烏龍茶を混ぜたやつを錬成し、じゃんけんで負けたほうが一気飲みした。ダブルスだから責任は双方にあるのにひどい罰ゲームだった。あいつはチョコバナナパフェにささったポッキーを無言で奪うような奴で、あたしは最後のポテトを二本まとめて取るような人間だった。ファミルンはそんなあたしたちの心の安寧に寄与し、放課後のだらだら時間を長きにわたって支えてくれた。

 あたしはファミルンがどんなに素敵な店だったかを話したくてたまらない。けれど出来事は口にすると形が変わる。薄まるのでも消えるのでもなく、別のものがひとたらしされて物語になる。それを悪いとは思わない。生きるには明日を肯定する何かが必要だ。

 だからここから先はあたしの真実。あたしにだけ意味を持つ、無責任で身勝手な終わりの物語。


 まずは、フユカが死んだところから始めよう。



〝クラスのみんな、あまり学校に行けなかった私と今まで仲良くしてくれてありがとう。わがままだけど、最後のお願いをします。

 私のお葬式は、必ず紫色の服で来てください。〟



 この恐ろしい遺書が記される三週間前のこと。

「五分遅い。待ってるうちに死ぬかと思ったぞ」

 病室に飛び込むと、ベッドに寝そべったフユカはVの切り抜きを流しながら不機嫌そうに目を伏せていた。


「あのね、あたしだって部活終わりに三十分かけてここまで来てんだけど。なんかねぎらいの言葉とか……」

「おい、言い訳しながら突っ立ってないで」

「……はいはい、水でございますねえ」


 ジャージを汗だくにして立ち尽くすあたしに構わず、フユカは視線だけで床頭台の吸い飲みを要求する。点滴とか酸素とかよくわかんないチューブにまみれていても、傍若無人な女王様は相変わらずだった。


「こっちが今週のノート、数学と英語ね。あと売店のアイスボックスと……こっちの袋は、いらないと思うけど一応、」

 こんなことになったのはちょうど一年前。部活の走り込み中「謎にだるい」とぼやいていたフユカは、廊下を歩くだけですっ転び、だんだんテニスどころではなくなり、大学病院で一日中スヤスヤする生活を送るようになった。手術とか副作用とか難しいとこはあたしは知らない。わかるのは、痩せに痩せたフユカは、これ以上細くなったらこの世からしゅっと消えてしまうってことだけだ。

 吸い飲みを口元まで持っていき、テーブルにノートを載せてやる。開けているのもつらそうな二重があたし渾身の数ⅡB公式まとめを追いながら「前世で何したらこんな字になるんだ」と呟く。「いよいよ目も見えなくなってきたんだね」あたしはぼこぼこに黒ずんだ点滴跡から目を逸らし、カバンから出した折り紙のお花をいじくる。


「なんそれ」

「クラス展示。一人百個作んないと終わんないって」

「はあ、そーゆー時期か。どうせ壊すもの作ってご苦労なこったな」


 せせら笑いはこけた頬のせいで一層やな感じに映った。フユカはこういう悪の顔をあたしにしか見せない。おかげで進級以来一度も登校していないクラスでは、病とたたかう薄幸の美少女的立ち位置になっている。


「……私がかわいそうかい。学祭にも行けなくて」

 ぼーっとしていると、からかうような声音が頬を撫でた。

「は? そりゃそうだわ。ガリガリすぎてマジあわれ。目のやり場に困る」

「ちょっとは気遣えよ」


 流れを取り戻すためにディスすれすれの軽口を叩くと、フユカは片頬を吊り上げるようにして笑う。

 八月の日差しが届かない病室、蛍光灯に照らされた白い横顔。伸びたチューブの先が数ⅡBにも学祭にも受験にも辿り着かないことはわかってた。けど、あたしに何が言えるだろう。軽口抜きで友達と喋ったことも、一回も死んだこともないあたしに?


「……そうだナツキ、クラスの奴らに言っとけよ。病室で鳥を飼う余裕はないってさ」


 黙っていれば穏やかな視線が、ノートと一緒に渡した紙袋の中身に注がれている。


「それねー、やんわり止めはしたんだよ」

「もっと頑張れ。全力で止めろ。紙の無駄だろ」

「わかんないじゃん。あんたが意外と鶴好きなこともあるかなって」

「今さらお前の知らない好み出てくる可能性は低いだろ」


 フユカは両手で引っ張り出した袋の中身を、珍しいものを見つけた老眼のプーさんのようにしげしげと眺めた。

 それはクラスみんなで作ったお花と同じ色味の千羽鶴だ。羽にはどれもご丁寧に「早く元気になってね」「待ってる!」なんて一言メッセージが躍っている。

 こいつの病気なんて去年からのことで、それがなんで今になってこんなもん寄越すかといえば、学祭のお花作りでクラス全体の工作熱が高まったからだ。沸騰した自己満足はやり返す手段をもたない薄幸の美少女に行きつく。


「てかお前も書いたの、このメッセージ」

「ご想像にお任せしまーす。……捨てとこっか?」

「まあ待て、それじゃつまんない」


 かろうじて起き上がれたらしいフユカはヨボヨボと窓際に向かい、あたしの筆箱から強奪したはさみを鶴を束ねた糸の先に差し込んだ。


「鶴さんに罪はないが、私はこんなもの千羽も飼えない。……大事にできないなら、逃がしてあげないとな」


 ぱちん、と、一度だけ軽快な音がして。

 まばたきしたあとには、色とりどりの鶴は糸を伝って空に飛びだしていた。


「わっは、怒られるよ」

「いいだろ、爆弾でもない」


 一列、また一列と糸の枷を切るたび、階下の中庭に色彩が降り注ぐ。

 おおかたは紙吹雪の速度で落ちていき、何匹かは風に乗って道路向こうに進路を取った。突然放し飼いにされたおめでたい鳥の群れを、散歩していた車椅子の子どもが追いかけている。


「……はい、こうして鶴さんは行きたいところに飛んでいきましたとさ、めでたしめでたし」


 こいつのこういう、妙に軽やかなところがあたしは嫌いではなかった。もうちょっとまじめに怒ったり悲しんだりしてもいいときに、思いもよらない手段で筋をつけて現実を回収していく。それは一種の麻酔で暴力的な自分勝手なのかもしれないけれど、いらない祈りを前に鬱屈としているよりずっといい。ずっと楽しい。そう、思う。

 そしてフユカのそういう態度は、死ぬまで変わらなかった。


 ◇


 ああそう、ファミルンでした。

 通学路沿いの国道にあったファミルンが閉店したのは去年のおわり。難しい手術を終えたフユカが、一瞬だけ日常に復帰していた時期の話だ。


「……だいじょぶなの、なんか、こうゆうとこ出歩いて」

「平気だよ。なんも食べれんからドリンクバーで居座るけど」

「シンプルに迷惑客」


 メニューをめくるふりをしながら、あたしは「平気」の定義について考え直した。十歩進むたびに肩で息をし、デフォで隈が浮いているフユカが「平気」なら、墓の下の骨もまあまあ平気な部類に入るんじゃないだろうか?

 この時期のフユカはフユカママに送り迎えされて授業を受け、女テニの練習を見学し、あたしとファミルンに寄り道するくらいの元気は回復していた。

 ……回復していた、のだと思う。少なくとも本人はそういう態度だった。

 ほんとのことを言うと、あたしはフユカがマジで大丈夫なのか、マジで大丈夫じゃないから一周回って日常をエンジョイしているのかわからなかった。

 だから。

「あたし四種のチーズドリアとチョコバナナパフェにするけど、あんたも同じでしょ?」

「食えないっつってるだろが」

 もう、難しいことは何も考えないと決めた。

 勝手だ。自己中だ。だけどあいつがげーげー吐いてる日も夕飯の焼肉はうまかったし、期末を受けながら思い出す手術は外国の事件なみに遠かった。まな板の鯉と料理人くらい立場が違うのに、今さらどうして自分勝手じゃないふりができるだろう? 包丁を持ちながら泣かれたって鯉も困るはずだ。

 おいしいファミルンファミルンルン、あなたの街のファミルンルン……。

 骨の浮いた手首から目をそらし、あたしは『長らくのご愛顧ありがとうございました』の張り紙が張られた店内を見渡した。

「なんか、ほんとに閉まると思ってなかった」

「……まあいつも私たちしかいなかった時点で察するものはあるよな」

「みんな駅前のサイゼだもんね」

 フユカは迷惑客だしファミルンは滅亡寸前だし、いつのまにか普段通りの場所で普段通りなのはあたしだけになっていた。外のフユカは元気が五割減で会話のラリーは壊滅的だったけれど、あたしは新しくダブルスを組んだ後輩ちゃんと全然テンポが合わんことや、数学のテスト範囲なんかを相槌も待たずにまくしたてた。よくわからない座りの悪さを会話で埋めたかった。

 そしてあたしがチーズドリアとパフェを遠慮なしにたいらげたころ、ドリンクバーの烏龍茶をちろちろ舐めていたフユカは「今日は歩いて帰るわ」とこともなげに外に出た。


「え、なんでよ。フユカママ呼びなよ」

「いいんだって。多少動かないと体力落ちるしな」


 そう返されるとそういうもんなのかと思うしかない。

 既にまっくらの午後四時半。街灯でぼんわり染まった住宅街の道幅は狭く、前を行くチェックのマフラーだけが黒い。ゆっくりと揺れる輪郭から、やかんみたいに白い息が上がっている。

 ――おいしいファミルンファミルンルン、あなたの街のファミルンルン……。


「おい、とろとろ歩くなよ」

「あんたに合わせてやってるんだけど」


 一人幅に狭まった歩道を押し合いながら進む。なんか懐いね、と言いそうになって、直前で思いとどまった。

 だってそんなふうに思い出にするまでもなく、これは長きにわたるあたしたちの日常だった。寒い寒いと言って部活帰りに飛び込んで、ドリアでおなかをあっためたらパフェも頼んじゃって。ついでにポテトも追加して、補導される前に白い道を踏みしめて帰る――あ、いや、ちがう。

 どうでもいいけど、夜の雪ってよく見ると白じゃない。ほんとだよ? 暖色っていえばいいのかな。冷たいのにあったかくて、人目がなければ道に寝転びたくなる感じの。一言で表すのは難しいけど、多分あの色は、

「おい、ナツキ」

 フユカがだしぬけに振り返ったことで、益体もない思索は打ち切られた。


「大丈夫、ファミルンは天国に移転するだけだ。また行ける」

「は?」

「いや、ずっと考えてたんだ。人間にあの世があるなら、潰れた店にもお店の涅槃がないとおかしいなって」

「お店の涅槃」

「で、店だけ集まった天国ってのもシャッター街みたいで寂しいからさ。結局人間と同じところに辿り着くんだよ。店も、モノも。なくなったときの姿のまま、24時間年中無休で営業するんだ」

「…………」

「心配すんな、ファミルンはいい店だったから天国間違いなしだよ。飲食店の地獄に落ちるのはぼったくり居酒屋だけだ」


 熱っぽく語る目には確信に満ちた光が宿っていた。妙に静かになっていたあいだ、彼女は彼女なりにファミルンの滅亡を噛み砕いていたらしい。


「……店員さんは?」

「え、さすがに配膳ロボじゃね。死後も働かせるの申し訳なさすぎるし……」

「あれあるかな、去年のチーズトマト冷麺」

「あるある。なくなった限定メニューぜんぶある」


 できるだけ適当な球を打ち返しながら、あたしは喉にせり上がってくる嗚咽を押しとどめるのに必死だった。

 何が琴線に触れたのか知らない。でもフユカに天国とファミルンの話をされるのは、なんか、ダメだった。どうしようもなくダメだった。だってそれは、自分と天国の距離感を知っている人の台詞だ。近々移転先を訪れる予定がある人の台詞だ。

「まあだから、現世店は一旦さよならだけどさ、二度と会えないわけでもないって」

 見上げた横顔は軽やかにスンとしていて、あたしはかけるべき言葉を見失う。

 強がってるのか、どうでもいいのか、諦めてるのか、諦めようとしてるのか。フユカは本当に、現世店だろうと天国店だろうとさほど違わないと思っているのかもしれない。わからない。

 あたしたちは間違いなく同じ日常を歩いてきた。あたしはあたしなりに、それを気に入ってもいた。

 けれど、この女――ずっと隣にいたこの女は、夜の雪の本当の色を知っているのだろうか?


 ◇


 そして忘れもしない。

 最後に会った、先週の夜。


「おう来たか、学祭お疲れさん」

 あの日、いつもよりたくさんのチューブに繋がれたフユカは、どす黒い顔色のわりに妙にごきげんだった。クラTを着て屋台飯を抱えたあたしがお祭りの空気をしょったまま病室を訪れても、むしろ満足そうににこにこしていたことを覚えている。


「お、女テニのロシアンたこ焼きじゃん。今年も出したのか。どうだった」

「ん……」


 別にだよ、あんたもいないし、と漏らしそうになって、あたしはあわてて笑みを貼りつけ直した。フユカのご機嫌をななめにしたくなかったし、何より、それは言ったら負けな気がした。これまでギリギリ、フツーのふりを貫いてきたあたしに対して。

 だからあたしはボケた記憶を濃縮しまくり、フユカがいなくてもいかに学祭が楽しかったかということをほとんどやけで語りまくった。いつも学校の話題を出すと若干しらけるフユカが、今日ばかりは楽しそうだったおかげもある。自分を保つのに必死だったあたしは、その意味をあまり深く考えなかった。

 写真を見せ、おみやげのロシアンたこ焼きを(あたしが)食べ、打ち上げに行ったクラスメイトから送られてきた下手なカラオケ動画を見終わったころ、フユカは「ああそうだ」と思い出したように笑った。


「そろそろ言おうと思ってたんだ。次から授業ノートはいらないよ」

「え?」

「もう必要なくなりそうだから。毎週ご苦労だったな」


 病人めいた顔色とその言葉の意味が、一瞬どうしても繋がらなかった。


「……それって、」


 ――いや、繋がることを拒否したのだと思う。だってその言葉の行きつく先は真逆の二択だ。そして片方は、こんなふうに楽しく語れる結末じゃないはずだ。

 だけど今、フユカは笑っていて、それはつまり――。


「……退院できるってこと?」


 何拍か遅れた喜びが胸を満たしそうになったとき、笑顔のままのフユカが「見てくれよ」と床頭台の引き出しから何かを引っ張り出した。


「学祭もいいけど、こっちも人生最後の大フェスティバルが迫ってるもんでな。きちんと準備しとかないと」


 それはゆるいおばけのマスコットを表紙にした、何の変哲もないファンシーなノートだった。表紙に黒マジックででかでかと『デスノート』と書かれていなければ。

 ぱらりとめくったページには「遺書 下書き」「出棺で流したいBGM百選」などの文字が並んでいる。タイトルセンスと内容の噛み合わなさ。病人が使うと悪趣味な表紙。ふざけてるのだと一目でわかった。あたしは、これがこいつなりのユーモアだと知ってしまっている。

「とりあえず思いっきり楽しくしてって頼むつもりなんだよ。実際どこまでやれるかわかんないけど、BGMは絶対明るくして、なんなら紙吹雪とかも……ナツキ?」

 いつもみたく適当に打ち返すべき場面だった。この曲はないでしょとか軽くディスって、なんならノリノリで協力して、友達の生死も何気ない顔で笑い飛ばして――笑い飛ばして――近いいつか、響く笑い声はあたしひとりのものになるのに?

「……なんか、さすがに、スベってると思うけど」

 わざと声に乗せたざらつきに、薄い身体がぴくりと身じろぎする。

「そうかもな、でも」

 フユカは双眸に光を張り付けたまま、ゆっくりと口角を上げた。


「お前を傷つけたとしても、私には私の終わりを笑う自由がある」


 静かに烟るような瞳だった。嘲りながら戦うような瞳だった。

 フユカが床頭台の別の引き出しを開ける。そこには、一匹の鶴がちょこんと座っていた。

 殴りつけるように「長生きして」とだけ書いた――――あたしの鶴。


「あんた、それ、気づいて……」

「こんな字誰も読めないよ」


 片頬だけで笑ったフユカの動きは素早かった。がらりと開けた窓の境目、かろうじて指先でつままれた鶴が、ひらひらと夜の風に身を任せている。


「私がかわいそうかい」

「……そりゃ、そうでしょ」

「だろうな。長生きできない、学校にも戻れない。でもまあ、どんな人生だろうと私だけは私を肯定してもいい」


 人差し指がぱっと離れた、その瞬間、


「だから、お前の祈りも逃がすんだ」


 最後の自己満足は、風に乗って夏の夜に消えていった。


 結局、あたしたちはつくづく似た者同士だったのだろう。どうしようもないときに強情な論理で世界を噛み砕こうとするところまで。あたしがフユカにわざと普段通りに接するように、そうすることでしか心を保てなかったように。フユカにもまな板の上の鯉なりの矜持があって、それは誰かの暴力になったとしても、包丁に負けないためには絶対に譲れないところで。


「……ノート、来週も持ってくるから。再来週も、来月も、来年も、ずっと持ってくるから!」


 わかっていても、これ以上冷静に話せる気がしなかった。ほとんど怒鳴りながら病室のドアを閉める。そのうしろからくぐもった声が追いかけてくる。


「葬式ぜったい来いよ、気合い入れとくから」

「またね、また来週!!」


 他校の学祭に誘うような台詞を声量でぶった切って、あたしは二度と振り返らなかった。


 そして、結局それが最後になった。


 ◇


 そこにフユカがいないのがよくわかんなくて、あたしは受付で痩せた長身を探す。そして遺影見て、あーフユカいないんだった! と思い出してハッとする。うそ、うそ、ちょっとウソ。たぶん、それも含めてポーズ。「ショックすぎて認められない自分」っていう。


 学祭の夜の一週間後、フユカはあたしが学校に行っているあいだにあっさり息を引き取った。穏やかな最期だったという。見てないから知らんけど。


「ナツキちゃん、来てくれてありがとうね。フユカも喜んでると思うわ」


 疲れた顔のフユカママに声をかけられて、あたしは「はあ」とあいまいに微笑む。


「……あー、そういえば服。さーせん。紫持ってないんすよ」

「全然。急に言われても困るでしょ。来てくれただけでいいのよ」


 葬式プランの手配やら親戚への挨拶やらで疲れすぎているフユカママはてめえ何一人だけ空気壊してんだよとは言わないし、あたしもフユカは死んでるからもう二度と喜ばないんですよとは言わない。

 淡いむらさきで埋め尽くされた式場に、結局あたしは普段の制服で来ていた。理由はない。強いて言えば、あいつの遺書に従うのは癪だった。

 女テニのみんなは控えめに涙ぐんでいたり、とりすました顔で無言だったり、どこか遠慮がちに葬式に適応していた。まるでフユカに対する感情の表明にはあたしの許可が必要だというように。

 とはいえ友達が死んだところでやることはないので、あたしは無骨なパイプ椅子に腰掛けてなすすべもなくスマホをいじる。おっけー、フユカはいない。でも不在の穴と、隣にいないことや「葬式だるすぎ」に既読がつかないことがまだ接続しない。


 読経の前に「故人の紹介」という謎コーナーが始まると、葬儀場の間接照明に照らされたみんながぼんやりと沈み込んだ。やわらかい白に満ちた広間。最後列のあたしの目からは、厳粛に頭を垂れた参列者はひとつの大きなかたまりに見える。


「えー、この度は故人の……」


 いくつもの紫が白飛びして。なんか、知ってるな、と思う。

 知ってるなこういう景色。ここじゃないどこかで、何度も何度も目の裏に焼き付いた色合い。あたたかくて茫漠として、妙にしんとした、それは。


「……あ」


 本当の夜の雪って、むらさきだ。

 あたしたちは、それを知ってる。

 そのとき、


 ――おいしいファミルンファミルンルン、あなたの街のファミルンルン……。


 妙にごきげんな音楽と共に。

 天井から、ぱらぱらと紙吹雪が舞い降りてきた。


「えー、フユカは生前、高校近くにあったファミリーレストランの……ファミルンを愛好していました。残念ながら新道通り沿いの店舗は昨年末に営業を終了してしまいましたが、この場では遺書の希望に沿って……」


 フユカパパのそれっぽい説明にぶほ!と鼻息が漏れ、あたしはあわててハンカチを当ててごまかす。ファミルンを愛好してたって。ないだろ。チェーンのファミレスだぞ。葬式のBGMにしていい好き度じゃないだろ。

 だから、これはこの思い出を共有するたったひとり。

 つまりあたしに向けた、人生最後の大フェスティバルの余興――。

 


「おい、とろとろ歩くなよ」



 目を閉じる。

 赤紫にたなびく風の中で、前をゆくチェックのマフラーが振り返る。

 幾度もリフレインした光景。

 世界に二人きりであることが、何も特別ではなかった夜。


 

「……紙吹雪で雪って、ベタすぎでしょ」



 そのとき、やわらぎ斎場Bホールを見慣れた夜道にできるのはあたしだけだった。故人の紹介がスローテンポのゾーンに入り、マナーの悪いJKが椅子から伸びあがっていることを誰も気に留めない。

 等速で降り積もるおめでたくない雪。あいつが勝手に作った真夏の雪原に、制服姿のあたしが勝手に立っている。彼女がこの裏切りを見越していないとは思えなかった。あたしたちがお互いの頼みに素直だったことなどない。

 ……だから、きっと、あたしだけいればよかったんだ。

 あいつ、客なんて、あたししか呼びたくなかったんだ。


 フユカはいなくて、雪はきれいで。


 人は自分の最期くらい見たい光景にしちゃう権利がある。

 それを都合よく解釈して、勝手に感じ入ってしまう権利もある。


 フユカはいなくて、雪はきれいで。


 並列した感情の先であたしの宇宙はもつれ、分裂し、正しく錯乱し、その果てに隣で笑うフユカがいる。雪がきれいなら、必ずこいつがセットだから。そういうものだから。


「いいだろ。天国店は年中冬だしチーズトマト冷麺もある」

「……ずるいなあ」

「これからどこでも行けるお前のほうがずるい」

「今さら? あたしなんて前からずるいし自己中だよ」


 もしかしたら、あいつは葬式で紙吹雪を降らせちゃったりするベタな演出が本当に好きだったのかもしれない。あたしの計り知れない理由で紫に謎の愛着があったのかもしれない。そういうことを何もかも知らない。知る気もない。だってあたしは生きていくから。生きるって暴力だから。不在に麻酔を打って、見たい景色を勝手に繋ぎ合わせていくことだから。

 今、ぼやける視界を熱いもので洗い流したら、明日からちゃんと学校に行ける。

 取る必要のないノートをまとめ、新しく組んだ後輩ちゃんとそれなりに頑張り、一人欠けた学祭をまあまあ楽しく過ごせる。あたしはずいぶん自分勝手だったけれど、それはあんたがいてもいなくても変わらないみたいだ。まったくふざけて矛盾したまま、本当は包丁を持って泣きたかったのかもしれない。


 フユカはいなくて、雪はきれいで。

 間違った世界が二つ重なった雪原のまんなかに、まだしばらく、立っている。


 ◇


 ファミルンが天国に移転したあと、現世には最悪のハンバーガー屋さんが建つ。


 中高生が繁殖した店は閑古鳥多めのファミルンと大違いで、一人で寄るには控えめに言って地獄のような場所だった。何もかもぴかぴかの店内にムカついて、ノートを開きまくって四人席を占領する。届けるべき相手はもういない。


『夜あつまれるひといませんかー』

『おけ ナツキチも来るしょ』

『駅前のサイゼね』


 秒で進む女テニのグループラインにご機嫌なスタンプを返す。思い出を上書きして、祭りが終わったあとも日々はつつがなく続く。

 うっすいカルピスと塩気の多いポテトを弄びながら、ひとつの予感を抱いた。

 いつか――遠くない、いつか、あたしは古びたクリーム色の壁紙を美しいものだったと思うだろう。安っぽいメロンソーダの濃さを、煮えすぎたチーズの熱さを、この上なく輝いていた瞬間の象徴として据えるだろう。忘れるって思い出せなくなることじゃない、いちばん鮮やかなときですべてを止めることだ。

 そして、恐ろしいことにそのとき、ファミルンが抜けた穴にはこの地獄が収まるのだろう。薄いカルピスに慣れ、妥協のポテトが舌に馴染み、四人席の正面にあいつではない誰かが座る。

 ……うん。

 うん、悪くはない。

 あたしたちは何度だって鶴を逃がして、真夏を雪に変えて進んでいく。生きている限り、身勝手に、軽やかに、祈りを手折って、誰かを傷つけて。それは、まだしばらくこの地獄で遊ばなければならない人間のささやかな奮闘だ。

 窓の向こうで見慣れたマフラーが振り返る。

 その幻に、あたしは手を振って背を向ける。

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真夏の雪の作りかた 小ライス @harunomatiawase

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