第22話 珍妙コラム第5弾 何だ?こりゃぁ

 私が購読している某全国新聞の第一面に毎日掲載されているコラムについては、これまでたびたび取り上げました。

 読んでも面白くない場合が多いので、最近は読まずに通り過ぎることも多くなりました。しかし、たまたま今日読んでみると、呆れるほど内容空疎なので、今回取り上げます。突っ込みどころが多すぎ、長文になってしまいましたが、あらかじめご了承下さい。


※ 新聞記事の記述に関して批判的なことを書きますが、当該新聞を貶める意図は毛頭なく、むしろその逆です。本エッセイの意図については、作品紹介文をお読みください。


 コラムに題名はついていませんが、テーマはパレスチナ自治区ガザの現況です。しかし、例により、まるで関係のない話題から入ります。

 サンテグジュペリの『星の王子さま』(邦訳)で、キツネが王子を見つめながら、”きみも友だちがほしいなら、ぼくをなつかせて!” と言う場面があると、コラム氏は言います。


 次に、コラム氏独特の解釈が披露されます。

「なつくとは慕うという意味だから、慕わせてほしいとキツネは受身の形でことになる。」(傍点は引用者=私)


 ここで、ジャブのような「?」を感じます。

 「なつく(懐く)」は「慕う」と同義だとサラリとおっしゃいますが、そうでしょうか? 国語辞典にある語義は、以下のとおりです。

■なつく(懐く)

・『新明解……』:[動物が人に、子供がよそのおとなに]警戒心を持たずに近づき親しむ。

・『広辞苑』:馴れてつき従う。馴れて親しむ。なつかしく思う。慕わしくおもう。


■したう(慕う)

・『新明解……』:①その人のそば(場所)に居たい、行きたいと思い、その実現を望む。[狭義では、そう思って、後を追うことを指す。] ②その人のイメージをいつまでも心の中にいだき、常にその思い出に浸る。 ③その人の学問や人物を尊敬して、それに従おうと思う。

・『広辞苑』:①(恋しく思い、また離れがたく思って)あとを追っていく。②恋しく、なつかしく思う。会いたいと思う。思慕する。③理想的な状態・人物などに対してそのようになりたいと願い望む。


 確かに、「なつく」と「したう」の意味は重なる部分もあるとは思いますが、語感はだいぶ違います。「なつく」は、「子供に懐かれた」とか「トカゲも人に懐く」といった使い方が多いように思います。一方、「慕う」は、「母を慕って三千里」とか、「あなた様をお慕い申し上げております」(時代劇中のセリフ)といった用例が思い浮かびます。


 なぜ、コラム氏があえて「なつく」を「慕う」に言い換えたのか、意図が見えません。


 それ以上に不可解なのは、「キツネは受身の形で懇願していることになる」の部分です。

 『星の王子さま』での前後関係が分からないので、確たることは言えませんが、果たしてキツネは「懇願」しているのでしょうか?

 私には、「もしも君が友達が欲しいと思うのなら、君は、僕が君に懐くようにしなければいけないよ!」と言っているのであって、「懇願」しているようには到底思えません。


 さて、ここまではまだ「序の口」に過ぎません。

 上に引用した文に続けて、コラム氏は次のように言います。


「お願いしなければならないほどの切実さが、地球に暮らす人間の争いごとの本質をうがつように思えてならない」


 ※「うがつ」=「穿つ」:人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。(『新明解……』より)


 いったい、何を言わんとしているのでしょうか?

 仮にコラム氏の言うように、キツネが王子に「慕わせてほしい」と「懇願」したとしても、なぜそのことが、「人間の争いごと」たとえば戦争の「本質」を的確に指摘していることになるのか? 

 私には、まったく理解できません。


 そもそも、なぜ人は戦争するのか、殺し合うのかについて論じ始めると、それだけで1冊の本になるくらいです。いえ、1冊では足りないかもしれません。

 同じ動物でも、人間以外は、同じ種類どうしで無駄な殺し合いをする例は極めて少ないと思います。殺し合いは、人間の本性に根差したものなのか? それとも、人間が持つ生産力が高まり、富の偏在が生じた結果なのか? 仮説を出すのでさえ、容易ではなさそうです。

 コラム氏の言うことは、浅薄のそしりを免れないのではないでしょうか。


 それに、「人間の争いごとの本質」と言っていますが、「本質」という言葉は、そう軽々しく使うべきではありません。「本質」というと何となく分かった気になりますが、それでは「本質」とは何かと問われると、説明は簡単ではありません。(もちろん、国語辞典的な説明は出来ますが)

 私は、「本質」とか、「真の」とかいった言葉を安易に使う人は、言葉に対するデリカシーに欠けているのではないかとさえ思います。


 さて、コラムは次に、パレスチナ自治区ガザにおける惨状と人道危機について述べます。


 そしていよいよ、フィニッシュです。


「『星の王子さま』は1943年に出版された。慕い合う関係への、キツネの切実な受身ぶりが予言的である。」


 理解不能。まったくお手上げです。


 1943年は、いうまでもなく第二次世界大戦中です。「キツネの切実な受身ぶり」(この表現自体が不可解ですが)が、いったい何を予言したというのでしょうか?

 1945年の大戦終結を予言したという意味でしょうか?

 もっともコラム氏は、「予言した」ではなく、「予言的」とあいまいな言い方をしていますが。

 しかし、それでは今回のパレスチナ自治区ガザの問題との関連が見えません。


 また、細かい事ですが、「受身ぶり」という言葉も解せません。上にも書いたように、コラム氏は「キツネは受身の形で懇願している」ことを特筆しているのですが、受身だからどうだというのでしょうか? 

 それに、そもそもキツネは受身だったのでしょうか? 王子に、自分が王子に懐くようにしろと命じた、とも解釈できますから。


 前にも書きましたが、このようなおかしな文章を、新聞の「顔」ともいえる朝刊第1面に掲載することが、私には信じられません。しかも、その新聞はミニコミ紙などではなく、誰もが知っている、日本の代表的な全国新聞の一つですから、なおさらです。


 このコラムが、新聞衰退に関して「予言的である」ことがないよう、祈って止みません。

 









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る