第13話 珍妙コラム 第4弾

 前回の投稿から、少し間があきました。

 私は朝食を取りながら新聞を読むのを、無上の喜びとしています。決して、言葉遣いなどのアラを探して読んでいるわけではありません。

 ここしばらくは、多少気になる点はあったものの、ここに書くほどのことは見かけませんでした。

 ところが久しぶりに、珍妙コラム復活です。某全国新聞一面掲載のコラムです。


 テーマは「8月」なのですが、まずは「6月」から説き起こします。

 冒頭、「六月三十日(みそか)は年のへそ」ということわざを掲げます。

 そして、「、昔から1年の半ばはこういわれた」といいます。(傍点は引用者=私、以下同じ)

 ここで、「やや正確性を欠くものの」が何を指しているのか、私にはよく分かりませんでした。1年は12か月で、前半の最後の月である6月の末日なら、1年の半ばといえる。どこが正確性を欠くのだろう? と思ったわけです。


 そこで、ネットで「六月三十日」を検索してみました。出ていました!

 「ダレトク雑学トリビア」というサイトです。そこには、こう書いてあります。

「6月30日は365日の181日目。残り184日。日数的に年の半分となるのは7月2日」

 なるほど。コラム氏は、このことを言わんとしていたのかと、合点がいきました。

ただ、そのことを「やや正確性を欠くものの」とだけで表そうとしても、私のような暗算が苦手な者は、思い至りません。いささか舌足らずで、不親切はないでしょうか?


 さて、上記の諺についてコラム氏は、「手元のことわざ辞典に載っている」と書いています。しかし、私の手元にある2種のことわざ辞典には出ていませんでした。『新明解国語辞典 第八版』や『広辞苑 第七版』にも出ていません。

 そこで、この諺もネットで検索してみました。すると、面白いことが分かりました。

 検索しても、この諺に関する記事はとても少ないです。

 「goo辞典」に「六月三十日は年のへそ:6月30日は一年のちょうど真ん中、半季の終わりに当たるということ(出典:デジタル大辞泉、小学館)」とあるくらいでした。あまりポピュラーな諺ではなさそうです。

 その中で、大手全国紙の、似たようなコラムで取り上げられているのが出てきました。

 それは、2023年6月30日に掲載されたコラムです。

 まず、「六月三十日(みそか)は年のへそ」と、くだんの諺を披露します。そして、「(この日は)1年の折り返し点で、各地の神社では『夏越なごしはらえ』の神事が行われる」と続けます。

 普段あまり聞いたり使ったりしない諺が、1か月半の間に2つの大手全国紙のコラムで取り上げられているのは、面白いと思いました。


 さて、諺に関する記述が長くなり恐縮ですが、これは前置きに過ぎません。

 コラム氏は、「とはいえ、その頃、ああ1年の半分が過ぎたかという実感に乏しいのはどういうわけだろう。」と続けます。「その頃」とは、6月30日を指しています。

 コラム氏が指摘する「実感」は、人によって違うように思います。私は、「もう6月も終わる。1年も半分過ぎてしまったな」と感じます。

 しかし、コラム氏のように感じる人もいるでしょう。コラム氏は、「どういうわけだろう」と訝し気ですが、理由は比較的明確だと思います。日本では、学校、企業、役所など、多くの組織で4月始まりの年度制を採用しているからではないでしょうか。4月に色々なことがスタートすれば、6月末はそれからまだ3か月しか経っていません。


 しからば、いつが年の半ばらしいのか? コラム氏は「代わりに思うのは8月である」と言い、ここでコラムが掲載された8月〇〇日との関連が明かされます。

 そして、お盆が過ぎるとどこかそわそわした心持ちになると指摘し、ある現代俳句を紹介します。この俳句も良く分からないものなのですが、私は俳句には疎いので、これ以上の言及は控えます。

 さらにコラム氏は、8月には、原爆の日、終戦の日、お盆や夏休みがあり、「社会や歴史を見わたしても、暮らしの内側に目を移しても、8月は1年のとみるにふさわしい行事が目白押しである。」と言います。

 あれ? コラム前半では「年の半ば」について書いていたのに、今度は「1年の中心」? 「半ば」と「中心」は、明らかに違います。まあ、このようなすり替えは、コラム氏の得意とするところですが。


 しかし、8月は1年の「中心」といえるのでしょうか? そもそも、なにをもって「中心」というのか。どうもピンときません。


 そしていよいよ、コラムもフィニッシュに入ります。うまく「着地」できるでしょうか?

 コラム氏は、8月は戦争関連の記事が多く「8月ジャーナリズム」と揶揄されることもあるが、「新聞はこの仕事を使命とし誇りにもしてる」と言います。これは、結構なことだと私も思います。

 しかし、最後の一文で、着地が大きく乱れました。

「戦争のない世をどう作るか。思いを深くしつつ、残り数か月のカレンダーをのぞく。」

 コラム氏は、綺麗に着地を決めたと思っているかもしれません。

 しかし、私から見ると、何ともセンチメンタルな、ジャーナリストらしからぬ文です。特にいただけないのが、「戦争がない世をどう作るか。思いを深くしつつ」というくだりです。

 戦争のない世をどう作るか思いを深くする、とおっしゃいますが、一体どんなことをお考えなのでしょうか?

 「戦争のない世」など、唱えるのはいとも簡単ですが、実現は極めて困難です。そのことは、人類の歴史を振り返れば、すぐに分ることでしょう。ジャーナリストたる人が、軽々しく言うべき言葉ではないと思います。


 以下は余談です。 

 毎年8月になると感じることがあります。

 各地で、戦争体験を語り継ぐ活動が行われます。とても意義深い活動だと思います。しかし、残念なのは、「戦争は悲惨であり、二度と起こしてはならない」という所で止まっていることです。そこで思考停止しているように、私には見えます。


■悲惨で二度と起こしてはならないはずの戦争を、人類が繰り返し起こすのはなぜか? それは人間の本性に根差すものなのか?

■戦争が起きるのを防ぐにはどうしたらいいのか? 「戦争は起こしてはいけない」と、唱えているだけで防げるのか?

■軍隊・軍備を持つこと自体が、戦争に繋がるのか? それとも、軍隊を運用する政治の問題なのか? 軍備は戦争の抑止に繋がらないのか?

■ウクライナを侵略し戦争犯罪を重ねるロシアのような「ならず者国家」が現に存在し、日本の近くにも複数存在する。そういう国に、外交だけで対処できるのか?


 こうした問題をタブー視せず、日頃から議論しておくことが必要だと思います。

 さて、コラム氏が「思いを深くし」た、その結果はどのようなものなのでしょうか?




 

 



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