第4話 「したい」って、誰が?
某大手全国新聞の、ある日の社説です。
英国の「環太平洋経済連携協定」(TPP)加盟がテーマです。
見出しに、
「自由貿易守る連携を強めたい」
とあります。
また、本文中にも、
「……TPPの参加国が、英国の加盟を正式に承認した。自由貿易体制を守るための連携を、強固なものにしていきたい。」
と書いています。
※いずれも、傍点は引用者。
ここでの「~したい」という表現は、普通の用法とは少し違います。
例えば「水が飲みたい。」と言った場合、主語は省かれていますが、「私は水が飲みたい。」という意味です。つまり、「水を飲む」の主体は「私」で、「飲みたい」という願望の主体と一致しています。
「彼は水が飲みたい」の場合も同じです。
『新明解国語辞典 第八版』は「たい(度い)」の語義について、「その事柄の実現を強く望む行為の主体の気持ちを表わす。」と説明していますが、「水が飲みたい。」はまさにそれに合致しています。(傍点は引用者)
一方、「自由貿易守る連携を強めたい」の場合、行為の主体と願望の主体が、一致していません。
行為の主体は、TPPの各加盟国、あるいはその政府でしょう。
一方、願望の主体は、誰なのでしょうか? しいて言えば、この記事を書いた人(記者・編集委員?)でしょう。あるいは、社説がその新聞の考えを表すなら、当該新聞(社)でしょうか。
しかし、この社説を書いた記者あるいは編集委員が、いくら願望しても、自由貿易を守る連携を深めるための行為を、自分自ら直接行うことはできません。
このような「~したい」の用法は、社説ではちょくちょく見られます。私は、そのたびに違和感を覚えてきました。同じ新聞の、社説以外の紙面ではほぼ見たことがなく、どうも社説独特の言い回しのようです。
端的に、「~すべきだ」、「~しなければならない」、「~せよ」などと言えばよいと思います。
今回の例ですと、
「自由貿易守る連携を強めよ」
「自由貿易体制を守るための連携を、強固なものにしていかなくてはならない。」
(これでは字数が多くなるというなら、「……連携を、強固なものにすべきだ」)
などと表現すれば、スッキリするでしょう。
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