49 黄昏の街
部屋のベッドに横たわり天井を睨む。
化学室で聞いた野崎の話と鈴川の話が頭の中を交互に廻る。情報を整理しようとする脳の片隅にちらちらと入ってくる陰が鬱陶しい。
焦燥と嫉妬。不要なノイズが思考の邪魔をする。
頭を振って余計な感情を振り払う。今はそんなことにかまけている場合じゃない。明日の試験が終われば野崎は高森を呼び出すだろう。金庫に入っていなかった問題用紙を持ち去ることができるのは、印刷室の鍵を持っていた高森しかいない。
深呼吸をして、手の中のピースを一つずつ確認していく。
試験問題が紛失したと思われるのは十五日。その日、新聞部は印刷室を使用していない。
十五日の朝に生徒会の高坂、塚田、杉本が印刷室を使用し、鍵は高坂が貸出用キーボックスへ返却した。
放課後、野崎が試験問題を持って生徒会室を訪れる。この時、野崎が愛用しているカゴに問題用紙と封筒が入っていたことは鈴川が確認している。
生徒会室では生徒総会についての打ち合わせを三十分程行なう。この間、問題用紙に注目している者はいなかった。
生徒会室を出た後、野崎は職員室で管理職からの試験チェックを受ける。許可が下りた後、印刷室へ向かい試験を印刷。金庫にしまおうとしたところで封筒が足りないことに気付く。
封筒を取りに印刷室を出たところで、塚田から生徒総会に関していくつか確認事項があると呼び止められ、そのまま立ち話をする。
そのうちに午後の職員会議の時間になってしまい、野崎は試験問題を印刷室に置いたままで鍵をかけて会議へ向かう。
野崎と別れた塚田が生徒会室に戻ったところで、その日の生徒会は解散。
その前後に高森が保健室前に落ちていた印刷室の鍵を拾う。拾った鍵を職員室へ届けにいき、職員会議前の三津島に鍵を預ける。
会議後、印刷室に戻った野崎は、印刷済みの試験問題を封筒に入れて金庫へしまう。二年の試験問題の教務チェックは野崎が担当することになっていたが、自分が用意した試験を改めてチェックすることを怠ったため、封筒の中の試験が白紙であることに気付かず、十月二十三日の中間試験初日にはじめて事態が発覚した。
とりあえず、試験問題の紛失について、今わかっているのはこれだけだ。
ベッドの上で寝返りを打つ。
現時点で怪しいのは高坂だ。十五日の朝に印刷室の鍵を返却したふりをして、こっそり持ち出していたかもしれない。だが、そもそも野崎が試験問題を印刷室に置きっぱなしにしたのは、突発的なトラブルによるものだ。それを予期して事前に印刷室の鍵を隠し持っていたというのも考えにくい。
ここ最近あったことを一つ一つ思い出す。パズルを組み立てるには、おそらくまだ何かが足りない。
城崎涼子の霊が出るという噂。高森の修行。八組の盗難未遂事件。体育祭の応援旗。試験問題の紛失。校内で最近頻発するという盗難事件。高森と城崎のいじめの噂。高森が見たという高坂の姿。
ふいに奇妙な違和感に襲われる。
――あの時、あの人はなんといった?
ベッドから身を起こし部屋を飛び出すと、兄の部屋をノックする。返事を聞く前にドアを開けると、部屋の真ん中でヨガの立木のポーズをしていた兄が振り返った。
「どうした直哉。今、宇宙と対話してんだけど」
「冗談か本気かわからないボケはほどほどにしてくれ。それより、高校の卒業アルバム持ってないか?」
肘を曲げた逆立ちのポーズへと姿勢を変えながら、兄が答える。
「そこの棚の端あたりにあんじゃない? 探してくれよ」
棚から二年前の烏山高校の卒業アルバムを取り出し、中を確認する。目的のものはすぐに見つかった。
「ちょっと借りていいか」
「いいよーん」
カエルのようなポーズで兄が答えた。
部屋を出ていきかけて足を止める。振り返り、謎の動きを続ける兄に訊ねる。
「好きなことをやるのって、覚悟が必要なんだよな」
俺の問いに兄が顔を上げた。
「どうした急に。進路相談か?」
「いや、別に、なんとなく聞いときたかっただけ」
背中を床につけて寝そべった姿勢のまま、兄が真面目な顔を見せる。
「覚悟っつーか、やんのかやんないのか、続けんのか辞めんのかって話だからさ、悩みのわりには選択肢はシンプルなもんだ」
大学のセンター試験より単純だぜ、と兄が笑う。
「どうした方がいいのかとか、この先どうなるのかとかまで考えてたら、確かに不安になったりもすんだろうけどな。結局、お前はどれを選ぶんだって話じゃねえか?」
ああ、やっぱりそうだ。なんとなく気付いていたけど、改めて思う。
「選んで、十年後に後悔したらどうすんの」
「そりゃ十年後の俺が考えるさ。未来の俺ならきっとなんとかするだろうよ」
なんせ今の俺より十年分かっこいいからなと笑う顔に、胸の奥がちりちりと焦げた。
鈴川は、少し兄に似ている。
「他に質問はあるかい? 弟よ」
背中をのけ反らせて両手足で立つ兄を見下ろす。
「それはブリッジのポーズか?」
「違う。上向きの弓のポーズだ。ウルドゥヴァダヌラーサナ」
「いや、ただのブリッジだろ、それは」
アルバムを自転車のカゴに放り込み、高幡不動までの道を全力でペダルをこぐ。夢中で足を動かしていると、頭が冴えていくのがわかる。三十分ほどで高森の家の前に着いた。
息を整えながら携帯電話を取り出し電話をかける。高森はすぐに出た。
「はい、高森です。矢口さん、どうかされましたか?」
「高森さん、悪いんだけど、ちょっと出てきてくれないか? 今、家の前に来てるんだ」
驚いた声がして、パタパタと廊下を走る音が聞こえた。
しばらくすると玄関のドアが開き、携帯電話を持った高森が姿を見せる。
「急にどうしたんですか? 矢口さん」
電話口と目の前の高森から、二重に声が聞こえてきた。電話を切ってアルバムを開き、高森に示す。
「高森さんが西棟で見た高坂先輩というのは、この人のことかな?」
二年前の卒業アルバム。部活の集合写真が載っているページで、水泳部を指差す。
瞬きを繰り返した高森が首を振った。
「いいえ、違います。私が見たのはこの方です」
高森の指が違う写真の人物を指した。
高森の家を後にして、多摩川沿いまで自転車を走らせる。適当な場所で自転車を降り、携帯電話で鈴川の番号を呼び出す。数コールですぐに鈴川の声がした。
「どした、やぐっちゃん。思ったより早いラブコールじゃない」
軽口は無視して質問する。
「十五日、最後に生徒会室の鍵をかけたのは誰ですか?」
ほんの少しの間の後、鈴川が答えた。
「確か塚田だったな。鍵をかけた後、そのまま職員室まで返しにいってくれたはずだ。空手部の部室の鍵も返すからついでにってな」
知らず知らずのうちに自転車のハンドルを握る手に力がこもる。
「鈴川先輩、明日の放課後、お時間頂けますか?」
「なになに? デート?」
「違います。事件の現場検証に付き合って頂きたいんです。十五日の動きを確認させてください」
「オッケー。それなら、生徒会のメンバーを集めておくよ」
「いえ、鈴川先輩と二人でお願いします」
「二人で?」
鈴川が不思議そうに聞き返した。
「やぐっちゃんの気持ちは嬉しいんだけど、俺には心に決めた人が……」
面倒な絡みは無視して用件を伝える。
「それと、鈴川先輩にお願いしたいことがあります」
頼みを伝えると、鈴川は軽い口調で承諾した。
鈴川との電話を切りペダルを踏む。気付けばあたりは橙色に染まり始めていた。昼と夜が溶け合う黄昏の中を風を切って進む。
深く息を吸い込んで、思い切りはき出した。肺の中まで取り込んだ黄昏が身体中に滲んでいく。
理由もなくあふれそうになった涙には気付かないふりをして、ひたすらに自転車をこぎ続けた。
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