第3章 雨上がりの空に

25 It's a piece of cake

 八月の最終火曜は少し天気がぐずついていた。夏はまだ終わっていないはずだが、あまり気温も上がらない。窓を開けると湿気を含んだ空気が部屋に流れ込む。風の中に時折小雨が混じり、すぐに消えていった。

 今年の夏は過ごしやすく、出かけるのにはちょうどよかった。高森との修行は順調で、最近では一緒に出かける回数も減り、高森が一人で動くことも増えていた。

 携帯電話が震え、画面に高森の名が表示される。通話ボタンを押し耳にあてると、すっかり聴き慣れた声が届いた。

「矢口さん、こんばんは、高森です」

 今日出かけた先やその時のできごとを嬉しそうに話す高森に相槌を打つ。この夏で電車での移動にもだいぶ慣れてきた。このぶんなら来週の二学期からは教室で授業を受けられるかもしれない。そろそろ修行も必要ないだろう。

 話の途中で部屋のドアがノックされた。返事をする前に兄が顔を出す。

「単三電池ない? リビングの時計が止まっちゃってさ」

「ない」

 兄が拗ねたふりをして口をとがらせる。

「あら、冷たい」

「電話中だ。出てけ」

 ひどい、冷たい、可愛くないと騒ぐ兄を無視する。

「矢口さん? どうかしましたか?」

 高森が心配そうな声で問う。

「ごめん、なんでもないよ」

「リビングの時計なんだから、直哉だって無関係じゃないんだぞ」

 ぶつぶつと文句をいった後、思いついたようにぽんと手を打つ。

「あ、誕生日プレゼントは単三電池にするか」

「どんなプレゼントだよ」

「……プレゼント、ですか?」

 兄とのふざけた会話は電話の向こうの高森にも聞こえたらしい。

「ああ、明日、誕生日なんだよね」

「らっきーばーすでーい」と歌いながら兄が部屋を出ていく。まったく、大学二年にもなって幼稚な兄だ。

「ごめん、うるさくて。……高森さん?」

 電話はしばらく沈黙したままだった。不思議に思い、もう一度声をかけようとしたところで、高森の声が聞こえる。

「決めました。私、明日はケーキを買いに行きます」

「どうしたの? 突然だね」

 急な宣言に驚く。

「来週からは二学期ですし、一人で移動できる範囲も増えました。夏の修行の最終課題として、明日は新宿まで行ってきます」

「新宿?」

 なんで新宿?

「はい。以前、矢口さんがお話していた伊勢丹へ行って、ケーキを買ってきます」

 新宿のケーキの話などしただろうか?

 少し考えて思い出す。

「ああ、チョコレートケーキか」

「はい」

 高森は甘いものがわりと好きらしい。話に聞いたケーキを食べてみたいのだろう。

「人がすごく多いけど、一人で大丈夫? 道もわからないだろうし、今回は一緒に行こうか?」

「いいえ。いつまでも矢口さんに甘えていられません。この夏の私の集大成です」

「It's a piece of cakeです!」という高森の声には力がこもっている。どうやら決意はかたいらしい。

「矢口さん、帰ってきたら電話をしてもいいですか? お渡ししたいものがあるんですが」

「いいよ。明日はレコード店以外に出かける用事もないし」

「ありがとうございます。では明日、三時に府中駅の改札前でいいですか?」

「わかった。それじゃ、また明日」

 電話が切れる。

 なんなんだろう、突然。

 確かにだいぶ電車には慣れてきたけど、人混みはまだ苦手だろうに。発作の回数もずいぶん減ったとはいえ、いつでも平気なわけじゃない。というより、これまで市内からあまり出たことないっていってなかったっけ?

 来週から始まる学校の前に発作が起きたら、また不安が大きくなったりはしないだろうか。いや待て、そもそも伊勢丹まで無事にたどり着くのかも怪しい。

 だんだん、明日が心配になってきた。

 ため息をつく。

 どれだけ心配しても何かできるわけじゃない。高森のことは高森自身がどうにかしてやらなければならないのだから。

 携帯電話の画面に表示されたデジタル時計を見る。明日の待ち合わせまでは、まだ二十時間近くもあった。


 翌日は朝から小雨が降っていた。気温も低く、八月なのに少し肌寒い。

 風邪をひいたりしないといいけれど。体調不良は精神に影響するから。

 部屋で寝転がりながら高森のことを考える。考えても仕方はないが、心配くらいはさせて欲しい。

 家にいても落ち着かず、出かけることにする。玄関で靴を履いていると、背後に兄が立った。

「買い物?」

「うん、駅まで」

「ついでに単三電池買ってきてくれ。止まってしまった時間を……動かしたいんでね」

 芝居がかった仕草の兄を無視して家を出る。

 駅までの道を自転車で走る。途中、小雨が少し強くなったのでフードを深く被った。ペダルを漕ぎながら車体の軋む音に耳をすませる。

 高森はそろそろ家を出ただろうか。何度か一緒に出かけてわかったが、高森は方向音痴だ。地図で東と示されているのを確認してから、自信を持って南へ向かう。自分の現在地をまるで把握していない。

「道を歩いていて一度振り返ると、もう別の世界に来たみたいでわからなくなってしまうんです」

「地形とか見ないの?」

「建物の形とかお店の看板は覚えてます。でもお店がなくなってしまうとわからなくて」

 そりゃそうだろうと呆れる俺に恥ずかしそうに笑っていた。

 府中駅の駐輪場に自転車をとめる。レコード店への道を歩きながら、やはりついていくべきだったろうかと思う。

 とりあえず居場所だけでも確認しようと、ポケットから携帯電話を取り出し高森の番号を呼び出した。

 通話ボタンを押そうとして親指を止める。

 これは、俺の自己満足じゃないのか?

 自問自答の声が脳に響く。

 高森は一人で自分の課題に向き合おうとしている。ここで無闇に手を出すのは、助けではなくて妨げになる。下手に関わるべきじゃない。手助けは必要だ。けれど必要以上の手は変化を阻害するだけだ。依存は、助けにはならない。

 フードを深く被り直す。見上げた空は雨雲に覆われていた。

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