10 涙の理由を聞かせて
ほんの一瞬、既視感に頭がくらりとして目を閉じる。瞼の裏を見つめているうちに、混乱した脳に昨日の記憶が蘇った。
つまり、これは。
今日のかくれんぼは教卓の下というわけだ。
念のため目を開いて確認するが、間違いなく高森千咲本人だ。高森は両手で頭を抱え、目を強く閉じて震えている。
「矢口、帰るぞー」
廊下の向こうから響いた松岡の声に、高森の肩が大きく跳ねた。小さな額に脂汗が滲んでいる。
教室のドアに駆け寄り、顔を出して声を張る。
「悪い、落とし物したみたいだ。先に帰ってくれ」
「なんだよ、一緒に探そうか?」
二人が近付いてくる気配がした。
ああ、しまった。あいつら良い奴らだな。
「大丈夫。ちょっとトイレ寄ってから帰るから」
もう一度声を張る。
「長引きそうだから先に帰ってくれ」
廊下の向こうで二人が立ち止まった。
「マジか、大丈夫か?」
「わかった。先行くから、腹痛ヤバかったら無理すんなよ」
教室のドアから腕だけを出してバイバイと合図をする。遠ざかる足音に長いため息をついた。
心配してくれたのに、嘘ついてごめんよ二人とも。
もう一度、教卓を覗き込む。浅い呼吸で眉根を寄せる高森に呼びかけた。触れないように右手を差し出す。
「大丈夫? 具合が悪いなら先生を呼んでくるけど。もし立てそうなら、とりあえず保健室へ……」
差し出した手は取られることなく、言葉の途中で思い切り突き飛ばされた。不意の出来事にバランスを取る余裕もなく、その場で尻もちをつく。目の前で荒い呼吸を繰り返す高森は、両手を前に出して俯いたままだ。
はっきりとわかった。これは明らかな拒絶だ。
ふいに怒りが込み上げる。
なんなんだよ、一体。俺なにかしたか?
挙動不審で情緒不安定、奇行を繰り返す頭のおかしい〈保健室の高森さん〉。
人嫌いの保健室の住人。放課後に一人、ひと気のない校内をうろつく変わり者。そんなんだから、まわりから変人だといわれるんだ。
どうでもいいと思った。
知ったことか。高森がまわりからどう思われようと、俺には関係ない。具合が悪かろうが何かに怯えていようが知ったことじゃない。
立ち上がり、床に落ちた鞄を掴む。
「邪魔して悪かったね。さよなら」
さっさとこの場から立ち去りたかった。理由のわからない羞恥に顔が熱くなる。
早足でドアに近付き、取っ手を掴んで力任せに開く。
教室を出ようとした瞬間、背後で「ごめんなさい」と小さな声がした。消えそうな声で、けれどもはっきりと。
思わず立ち止まって振り返る。
静かな教室の中には高森のかすかな息遣いが響いていた。
窓を打つ雨音が耳に触れる。
唐突に、そういえば今日は一日中雨だったことを思い出す。五月だというのに少し肌寒い。
ドアを閉めて高森の方へ歩みよる。
教卓から五歩くらいの場所で足を止める。怖がらせない、傷付かない距離感を探る。
「あのさ」
気付かれないように息を抑えながら深く深呼吸をする。
「高森さん、もしかしてなにか困ってることある?」
高森が息をのむのがわかった。教卓が小さく音を立てる。
「私の名前を、知っているんですか?」
はじめて交わした言葉は囁くように揺れていたが、俺の耳にちゃんと届いた。その声に安堵する。
「うん、クラスメイトが高森さんを知っていて」
慎重に選びながら言葉を紡ぐ。
「昨日も具合が悪そうだったし、どうしたのかなって思って。俺が何かしたなら悪かったよ」
だから、できれば理由を聞かせてくれないか。
教卓の下で、高森が大きく息を吸った。
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