6 芸術選択

 身体を軽くゆすられる感覚に目が覚める。

 目を開けると高谷が呆れたような顔をしていた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。

「この雨の中よく寝られるな」

 信じられんといいながら高谷がひとつ上の段に腰を下ろす。見上げると雨足は強くなっていた。

「さっきまではこんなに降ってなかったんだよ」

 ヘッドフォンをはずしてあくび混じりに言い訳をしてみる。

「ここは雨除けも広いしな。けど風向きが変わったらずぶ濡れだったぞ」

 少し離れた壁に背を預けて粟國が笑った。すでにおにぎりを一つ食べ終えている。

 大きく背伸びをして肩を回す。ほんの十分ほどの時間だったが身体は強張っていたようでぱきぱきと音を立てた。

 弁当を開いて唐揚げを口に放り込む。空腹を思い出したように腹がなった。どんな時でも腹はへるものだと可笑しくなる。

 気付けば頭の中は少し軽くなっていた。やはり人間には睡眠と食事が不可欠だ。健全な精神は健康な肉体から。無病息災。健康第一。

 一人頷きながら箸を動かす。

「音楽の時間が眠くてさ。授業はなんとか耐えたんだけど、ここにきたらもう限界で」

 ああと高谷が頷く。

「横溝な。俺は美術選択だから知らないけど、かなりやばいって話だな」

「やばいっていうより、とにかく退屈かな。これを機にクラシックとかミュージカル映画に目覚めると楽しいんだろうけど」

 クラシックの音はわりと好きだと思えたが、ミュージカルはちょっと苦手だ。突然歌い出すことに理由を探してしまうのがよくないのかもしれない。そういう世界なんだと思えたら楽しめるだろうか。

「高谷くんは? 美術ってどんなことしてるの?」

 口いっぱいに肉を頬張りながら、高谷は考えるそぶりを見せた。

「別にたいしたことはしてないかな。普通の授業だよ。デッサンとか色相とか」

 話しながら、まだ飲み込まないうちにご飯を口に運んでいる。数回咀嚼してロイヤルミルクティーと一緒に流し込んだ。

「まあ楽しいっちゃ楽しいけどさ。上手い下手はともかく、絵の具の匂いとか俺好きだし」

 にっと笑うと高谷は残りのロイヤルミルクティーを飲み干した。

 いつものことですっかり慣れてしまったが、食事中に甘い飲み物は胃もたれしないんだろうか。

「ああそれと、ブラッド先生から時々変な質問されるかな。質問というか課題というか」

「へえ、例えば?」

「先週は確か、正三角形と二等辺三角形ならどっちがより情熱的な形だと思うか聞かれたな。今日は、なんか紫とか緑とか混ぜたような青色を見せてきて、この色に名前をつけるならなんとつけるかって質問だった」

 なるほど。

「なんというか、それは……芸術的だな?」

 よくわからないけど。

「それで、結局なんて名前をつけたんだ?」

 訊ねた粟國を振り返って高谷が胸を張った。

「スーパーテンダネスブルー・ミステリアスバイオレットアドサイレントグリーン」

 ……ノーコメントとしておこう。

「芸術的感性と言語センスは人それぞれだからな」

 おにぎりをかじりながら粟國が呟いた。

「粟國は書道だよな、何やってんだ?」

 俺も美術か書道か悩んだんだよなと高谷が笑う。

 高校の芸術選択は一年の入学時に選ぶことになっていて、一度選ぶと三年間変更はできない。

「意外だな。美術一択かと思った」

「筆を使って何かを描くのが好きなんだ。筆がすべっていく感覚が楽しくてさ」

 楽しそうに笑う高谷を羨ましく思う。好きなものを素直に好きだと言えるのは、すごく大人だ。

 粟國がちょっと待てというように手のひらを向けた。おにぎりを飲み込みながら水筒を手に取る。一息つくと胡座をかいた足を組み直した。

「書道は古典の篠田先生が担当してる。篠田先生には口癖があってな。『書は書くのではない。線を引くのだ』っていうんだ。毎回授業のはじめに『みなさん、今日もよい線を引きなさい』っていうのが面白いな。その後は二時間ひたすら手本を見ながら写すだけだ。篠田先生は時々後ろからのぞいてきて『よい線ですねえ』とかいうんだが、何がよくて何がよくないかは俺にはさっぱりわからん。特に指導が入るわけでもないし、授業放棄なら横溝の音楽といい勝負なのかもな」

 授業放棄といいながら、粟國は愉快そうに笑った。粟國が素直に「面白い」ということも中々ないので、多分、篠田先生のことは割と気に入っているのだろう。

「ああそれと」と粟國が思い出したように付け足した。声がおかしそうに揺れている。

「一度だけ、篠田先生が放課後の書道室で高笑いしながら文字を書き殴ってるところを見たな」

 高谷が呆れた顔で天を仰いだ。

「芸術選択の教師は変人ばっかりかい」

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