5 繭のなかの音

 雨が降っていた。

 教卓に置かれたレコードプレイヤーからはグレン・グールドの〈ゴルトベルク変奏曲〉が流れている。

 窓を叩く雨の音とピアノの音色が混ざり合い、音楽室は気怠い空気が満ちていた。

 四限目の芸術選択。CDとレコードの違いを聴き比べるという授業だが、聴いている者はほとんどいない。半数以上は机に伏せて睡眠学習を決めているし、残りは自習や読書と気ままに過ごしている。

 俺はといえば特に熱心さもなく、レコードからあふれる音楽を聴き流しながらただぼんやりと過ごしていた。

 芸術科目の座学は嫌いではないが、さすがに二時間続けての音楽鑑賞は退屈だ。

 退屈を紛らわせるため、鑑賞用に配られたプリントに目を落とす。この時間だけで三回は読んだ内容をもう一度はじめから読み返す。

 プリントにはグールドの経歴と奇抜なエピソードについて書かれていた。

 食べるものにこだわって常にミネラルウォーターを持参し、ビタミン剤を多用する。父親が作った椅子以外に座りたがらない。演奏中に歌ったり指揮者のように腕を振ったりする。等々。

 インターネットから引っ張ってきたような文章でどこまで信憑性があるのかは疑わしいが、つまりは変人ということだろうか。天才は何を考えているかわからない。何とかと紙一重とはよくいったものだ。

 四回目を読み終えたプリントから目を上げて時計を見ると、授業終了まではあと二十分もあった。

 眠い。

 閉じようとする瞼を押し上げようと両目に力を込める。

 睡魔と戦っていると後ろから肩を叩く手があった。振り返るとクラスメイトの原田が手をひらひらとさせている。いつの間にか席を移ってきたらしい。

「よ、暇か?」

「暇っていうか、さすがに眠い」

「だよなあ」

 原田が笑う。

「今年の音楽はハズレだったよな、担当が横溝とかさ。音楽鑑賞っていえば聞こえはいいけど、あれは単なる授業放棄だろ」

 原田は教卓の横でイスに腰掛けている横溝を顎でしゃくった。目を閉じて俯く横溝は寝ているのかどうかもわからない。

 確かに原田の言い分もわかる。音楽教師の横溝はやる気がないことで有名だ。噂では授業の半分以上は音楽鑑賞かミュージカル映画の鑑賞らしい。二年で担当が横溝に変わってからまだ日が浅いが、今のところ歌も楽器の演奏も、座学すらもやっていない。今では、横溝の授業なら寝ても問題ないというのが生徒の共通認識だ。

 原田が不満そうに鼻を鳴らした。

「去年は楽しかったよな。三津島先生の授業。ギターの弾き方とか習えたしさ」

「原田くん、Fのコードが苦手だって補習受けてなかったっけ?」

 確か年末の試験期間に騒いでいた気がする。

 原田はふふんと得意げに髪をかき上げる仕草をした。

「矢口、知ってるか。俺はFどころかCもまともに鳴らせないんだぜ」

「いばるな、いばるな」

 原田がにやりと笑う。

「確かに、俺はギターは上手くないが苦手じゃない。ギターを弾くのは楽しかったからな。楽しいってことは好きだってことで、好きだと思えるならそれは苦手じゃない。むしろ得意ってことだ」

 胸をはる原田に思わず笑ってしまった。理屈はめちゃくちゃだが、妙に説得力がある。

「まあ矢口の方がギターは得意だろうけどさ。去年、音楽の授業の前によく弾いてたよな。どっかで習ってたのか?」

 思わず、ああと声が漏れる。

「得意ってわけじゃない。簡単なコードを押さえられるだけだよ。前に兄貴からちょっと習ったことがあって」

 声に不機嫌さが混じらないように、話しながら慎重に言葉を選ぶ。

「へえ、兄貴がいるのか。ギターできるとか羨ましいな」

「高校の時からバンドやってたからな。今も下北あたりでライブしてるらしい」

 まだ一度も見に行ったことはないけれど。

「そいつはかっこいいな」

「そうだな」

 素直に笑う原田に笑みを返す。喉の奥に込み上げた苦さには気付かないふりをした。


 北棟四階、外階段の踊り場に腰掛けてヘッドフォンをつける。

 雨音が消えてあたりに音楽が満ちていく。

 まわりから切り取られて世界で一人になったような錯覚に陥る。

 壁にもたれかかって目を閉じた。

 音楽は苦手だ。

 俺は音楽のことがわからないから。

 楽譜も読めないし音楽理論も知らない、歌が上手いわけでもない。楽器もできないし、そもそも演奏したいと思ったことがあまりない。ギター弾けたらかっこいいだろうな、くらいがせいぜいだ。

 ヘッドフォンからは俺の好きなロックバンドの曲が流れてくる。メロディが好きなのか、リズムが気に入ったのか、歌詞に惹かれたのかわからない。はじめて聴いた時に、ただ純粋に好きだと思った。

 曲の合間にほんの少しの静寂が訪れる。ヘッドフォンの向こうにかすかに雨音が聞こえたような気がした。

 ギターが好きだと笑った原田を羨ましいと思う。

 俺は、俺の好きなロックバンドを好きだと笑うことができない。

 音楽の知識を持たない俺が、曲の良し悪しをどうこういえるはずもない。多分、兄貴だったらいえるんだろう。いつもの軽い調子で当然のように「これ、俺が好きなロックバンドなんだぜ」と。

 気持ちが泡立つ。理由のない苛立ちが棘のように肌に刺さる。

 羞恥。後悔。焦燥。嫌悪。

 普段は目を背けている現実と思い出したくない記憶が蘇る。


「なんでも知ったような気になりやがって。お前みたいな奴が平気で他人を傷付けるんだ」


 あの日の言葉を繰り返し思い出す。何度遠ざけてもべたりとはりついて忘れさせてくれない。

 ポケットの音楽プレイヤーに手を伸ばし、雨音をかき消すようにボリュームを上げた。

 遮断された世界にほんの少しだけ安心する。

 世界の音が消えて繭の中にいるような感覚。

 錯覚だとはわかっていても、今だけは知らないふりをさせて欲しい。

 繭の中で音楽に包まれたまま、俺はゆっくりと目を閉じた。

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