誰が悪いのか
かいばつれい
理不尽な話
パチンコ屋が勝たせる日は町全体が活気であふれる。一家総出でパチンコに行く世帯が多いこの町では、パチンコが地域経済を回す円滑油になっており、このような日は飲み屋はどこも忙しくなるのが常であった。阿戸岐楚乃のバイト先である居酒屋『ひきしお』も例に漏れず、パチンコ帰りの客でごった返していた。
「おいビール持ってこい」
「ぼんじりまだかよ、のろま」
「酒が来なくちゃ、あったまんねぇぞ」
「はい、少々お待ちください」
楚乃は必死でフロアを駆ける。
「アトキンソン、三番テーブルのねぎまとっくに焼けてんぞ。さっさと持ってけよ。冷めちまったら、ねぎま代を給料から差っ引くぞ」
「はい、すいません。すぐ持ってきます」
先輩の小田から、アトキンソンと呼ばれるようになった楚乃は、厨房とフロアをシャトルランのように往復し、懸命に仕事をこなした。
「お待たせしました。ねぎまです」
「遅えよ馬鹿たれ」
「申し訳ありません」
小田や客からどんなに罵られようとも楚乃は顔色ひとつ変えずに働いた。これもすべて生活のためだ。その一心だけが楚乃を動かしていた。
どんな罵声でも動じない楚乃の接客態度は、店長からの評価は高かったが、小田にとっては印象最悪の後輩であり、楚乃のことを快く思っていなかった。
後輩の、客や自分に恐れをなして震え上がる様を見るのが一種の気晴らしになっている彼には、楚乃は腹の立つ後輩でしかなく、小田は何度も楚乃を窮地に陥れた。
ある時は、酒の銘柄をすべて把握しきれていない楚乃を三十名以上の宴会に一人だけで回らせたり、またある時は、開店前のフロア清掃とトイレ清掃を楚乃一人にやらせるなど、大抵の新人が辞めたくなるような無茶振りをやらせたが、楚乃はそれらすべてを、弱音ひとつ吐くことなく完璧にやり遂げた。
なんでこいつは怯まない?こいつは鋼のメンタルどころではない。つまらん。とにかくつまらん。
今日の営業はあと一時間。小田はさらなる悪事を企てた。
「おいアトキンソン、おまえにはまだウチの店の通過儀礼を教えてなかったな」
「通過儀礼ですか?どんなことをするんです?」
「こいつを飲んでラウンドするんだよ」
そう言って小田は楚乃に液体がなみなみ入ったハイボールグラスを差し出した。
「めちゃくちゃ濃いハイボールだ。こいつを飲んで閉店まで素面でいられたら合格だ」
「これを飲むんですか。でも勤務中ですよ」
「なに、俺に口答えすんの?」
小田が楚乃を睨む。
「いえ、そういうわけじゃ」
「俺も昔の先輩にやらされたんだぜ。店長が休んでる今日くらいしかできないからな。さっさと飲め。それともできないってなら、勤務態度最悪として店長に報告しちゃおうかな。そしたら間違いなく減給になるな」
減給は困る。楚乃は酒の味を知らないというわけではないが、酒は嗜好品の代名詞として、日常で飲むことは殆どない。自分がどれほど酒に強いのか当然知る由もなく、このハイボールを飲んで後の仕事がこなせるか不安だった。だが、これも生活のためなら────
「わかりました。いただきます」
「そうこなくっちゃ」
楚乃はグラスを手に取り、ひと口飲んだ。
苦い。なんだこれは。
「うめえだろ。なんたって八割はウイスキーだからな。炭酸なんか全く感じないんじゃない?」
「う、喉が焼けそうです」
楚乃は喉の奥が焼け付くのを感じた。
「おい、誰がちびちび飲めつった?イッキ飲みに決まってんだろ」
「これをイッキに!?ちょっと、いくらなんでも・・・」
「あ?やっぱり飲めない?じゃあ減給だな。ハハハ」
「いえ、飲めますよ」
不敵に笑う小田に対し腹が立った楚乃は負けじとグラスを両手で抱えて、ハイボールを一気に飲み干した。
「ぷはっ。こ、これで、どうです?」
「ちっ。飲んだだけじゃだめだぜ。ちゃんとお仕事できることを証明しなきゃ」
「わ、わかりました」
楚乃はフロアを歩き出した。何故だろう、視界が揺れている。それに身体が熱い。足もふらつく。これでは倒れてしまいそうだ。
「遅え。そんなんじゃ夜が明けちまうぞ」
「はい!」
後ろで聞こえる小田の声はどこか嬉しそうだった。
ええい、ままよ!
トレンチを持ち、楚乃はテーブルを片付け始めた。最初のうちは、空き皿やジョッキを落としかけたが、意地と根性で耐え、事なきを得た。
もう少し。あともう少しだ。代行待ちの客は一組。その客が帰る前に他の席を片付ける。がんばれ楚乃。がんばれ、がんばれ!
がんばれと呪文のように口中で繰り返す。この方法は自分を保たせるのに楚乃がよく使う技である。こうしていると、どんなにきつい仕事でも、やって退けることができた。
「ちわーす。サクタ代行です」
代行屋のジャケットを羽織った青年が元気よく店内に入ってきた。これでノーゲストになる。なんとか峠は越えた。
「お兄ちゃんおあいそよろしく。それにしてもよくがんばるね。今どき珍しいよ。お釣りいらないから、あとでお茶でも飲んで」
客から釣り銭をチップとしてもらい、楚乃は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。またお待ちしてます」
これで業務終了だ。あともうひと踏ん張りだ。客を見送り、最後のテーブルに向かおうとしたその時だった。
安心しきっていた楚乃は後ろの気配に全く気が付かなかった。鬼の形相の小田が楚乃にヘッドロックをかける。
「先輩やめてください」
「この野郎。なに仕事こなしてんだよ。なんでぶっ倒れねえんだ。あ?」
憎たらしい。この根性があり過ぎる後輩が憎くて仕方ない。
「倒れたら仕事にならないじゃないですか。く、苦しい。お願いですから離して下さい」
「やだよ。俺を怒らせた罰だ。こいつを飲みな」
小田の手には赤ワインのボトルが握られていた。これを飲まされたら、ひとたまりもない。
「駄目です。そんなの飲んだら今度こそ倒れます!」
「良かったじゃん」
ヘッドロックをかけられ息も絶えだえになった楚乃は思わず口を開けてしまう。
「なんだ。やっぱ飲みたいんじゃん。それじゃあ飲ませてやるよ」
「やめて、やめて、やめろ」
ボトルを口に押さえつけられ、赤ワインを無理やり流し込まされる。酸素とともに大量の赤ワインが楚乃の口に流れていった。
「ちゃんと全部飲んだか?あん?」
ワインを飲ませ切ると、小田は楚乃の頭を激しく揺さぶって酒の回りを早めた。
「ちゃんと飲んで偉いぞ。あのオヤジのチップはおれがもらうわ」
小田は楚乃のサロンエプロンのポケットからチップを抜き取り、楚乃の首から腕を離した。
ハイボールを飲まされて既に赤くなっていた楚乃の顔がさらに赤みを増した。身体はふらつき始め、うつ伏せに倒れ込んでしまう。
駄目だ、駄目だ起きろ!ここで潰れてはいけない。最後まで仕事をこなすんだ。起きろ楚乃!
必死に言い聞かせるが、身体が言うことを聞かない。起き上がろうとして腹部に力を入れた途端、熱いものが喉の奥から込み上げてきた。
「もう無理、おぇっ」
ついに楚乃は嘔吐した。床に吐瀉物を勢いよくぶち撒ける。
もう意識を保てない。
薄れゆく意識の中、楚乃の頭上でパシャリと、そしてすぐ横でごとっという音を耳にしたが、その音の正体が何か、楚乃には判断できなかった。
「阿戸岐くん起きろ。起きるんだ」
「ん・・・」
翌朝、仕込みのために出勤してきた店長に楚乃は起こされ目を覚ました。
頭が痛い。すごくガンガンする。昨日はどうしたんだっけ。どうして店で寝ているんだろう。何も覚えていない。
「なんで店で寝てるんだろうってツラしてるね。これ見てごらん」
店長はスマホの画面を楚乃に見せた。
「えっ、これは」
画面には、倒れている楚乃が写った画像が表示されていた。楚乃のすぐ横にはワインボトルが転がっている。
「なんですかこれ」
「それはこっちが聞きたいよ。小田くんから連絡があったんだ。君が壊れたと。この写真は小田くんが送ってくれたものだ。とぼけられないように証拠を残しときましたってね。ひどい有り様じゃないか、営業中にハイボールを飲んだ上に、大事な常連さんのボトルキープのワインもすっかり飲んじゃってさ」
「自分がそんなことを?!」
「最後のお客のテーブルは小田くんがちゃんと片付けてくれたよ。君には失望した。床のゲロ掃除したら帰っていいよ。それから、明日からもう来なくていいから。あと今日までのバイト代はワインの弁償代で消えたからね。よりによって店で一番高いワイン飲みやがって。中々手に入らないワインなのに、キープしてたお客様になんて言ったらいいんだ」
「そんな。何かの間違いです」
「間違い?ああそうだね。確かに間違いだったよ、君を雇ったことがね。弱音を吐かずにがんばってたから期待してたのに、代わりにゲロ吐くとはね」
「そうじゃなくて」
「言い訳なんて聞くかよ。臭えからさっさとゲロ拭けや」
店長はもはや楚乃の話を聞くつもりは一切なかった。
記憶が残っていない以上、どうしようもない。二日酔いの頭では考える気力が起きず、何故自分がそんな行動をとったのか分からなかった。
もしかすると無意識のうちに溜まっていたストレスから弾けてしまったのだろうか。だとしたら、自分はとんだ馬鹿野郎だ。柄の悪い客に耐えてきた努力が一夜ですっ飛んでしまった。本当に大馬鹿者だ。
「店長。申し訳ありません」
「うるせえよ」
それっきり店長が楚乃に口を開くことはなく、楚乃はやるせない気持ちで吐瀉物を掃除し店を出ていった。
小田が店の売上を持ち逃げして飛んだのは、楚乃が店をクビになってから半年後のことである。無論、楚乃には関係のない話だが。
誰が悪いのか かいばつれい @ayumu240
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