「正義」とは

@AriS3193

「正義」、「悪」

 …「善」・「悪」


 多くの人に聞きなれた言葉であり、近年の小説やアニメ・漫画の普及とともに耳にする事となったこの言葉。


 ふと、その意味について考えることがある人も多いだろう。その度に、哲学的で抽象的なこの話題に嫌気がさすこともしばしばである。誰かにその解を求めたところで辞書的な、(「善」であれば【正しさ】【社会行動基準】【正義の基本原則(平等・公平・権利・責任・公共の利益)】といった)言葉が並び現実味を帯びてない価値観を押し付けられるだけだろう。


 その為、自身の教養や価値観によってその意味の解釈に一人一人ずれを持つことは仕方がないのであろう。そのずれは許容されるべきものであるが、行き過ぎたものとなる人も多くなっているという事実もある。



 SNSの普及とともに多くの人々が自身の価値観を他者と共有するようになったこの時代、その意味や定義がこれまで以上にあやふやなまま語られるようになったと感じるのは私だけであろうか...。



 言葉に人々が意味を込めるたび、その「言葉」には力が宿っていく。「言霊」とも呼ばれるこの力は現代において、これまで以上に“キョウキ”となっている。



 これは、現実であろうと電子媒体内であろうと変わらないものである。人にとって外見的承認欲求でなく内面的承認欲求の強さは日に日に増している。これは、昨今のYouTubeやTwitter等のSNSをもとに人々が活動を行うようになっていることに表れている。



 外見的承認欲求は現代の整形技術の向上やメイク技術の発達によって自身が満足するものとなった人が増えていっている。しかし、外見的承認欲求は周囲の人に容認してもらってこそ真に満足するものであることことから、容易に発信できるSNS等に過程も含めエンタメの面を含みながら投稿されている。この発信の容易さは、既存の美を生み出す方法を再現性の高い形で提供する後押しとなった。


 一方で「画一された美」は、個として見られたいという欲求、内面的承認欲求のタガを外すカギとなっている。この欲求は、他よりも個として見られるように自身の体やSNSに自身の証を刻むという多くの時代の若者の行為に表れている。


 これは美術や芸術の世界でも言えることである。写術的なものが好まれるようになるとピカソのような絵を好み評価を行う人が出てくるという事例はこのことと同じだといえる。やがてそれは、社会の中に広がりピカソに影響を受けるようになっていく。



 このような時、人間には社会的な輪の中にいたいという強い孤独への恐怖を回避する行為が見られる。元来群れを作って生活を行っていたであろう生物にとってこの行為は必然的とでもいうべきものであり、この行為こそが「善」と「悪」という考えや概念を生む原因であると考える。


 つまり、群れや社会というコミュニティーに対し排斥され孤独となるような行為が「悪」となり、社会というコミュニティーに対し許容され不快感のない行為が「善」となるのである。






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